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第1回・織田信長――豊臣秀吉

信長流人材登用

 信長が美濃を統一して“天下布武”のビジョンを掲げる過程で、頭角を現した人物がいる。木下藤吉郎(のち羽柴、豊臣秀吉・1537~98)だ。秀吉は桶狭間の戦い(1560)前後には、草履取りとして信長の身近にいる。彼は家臣たちが信長に戦慄するなか、どうすれば信長に気に入られるかを懸命に考えた。
「まずは、この人を好きになることだ」

 秀吉は、信長に懐こうと粉骨砕身して忠勤し、この主君を理解しようとした。彼は信長に対して単に“ヨイショ”や“ゴマすり”をしていたわけではない。十代から世間の荒波にもまれてきた秀吉は、他人の気心や好みを機敏に洞察する能力――コミュニケーションスキル、対人関係スキルが抜群に高かった。彼は信長が何を考え、何を欲しているかを的確に把握し、その意を酌んで自ら考え動くことができた。

 しかし、信長は単純ではない。別段の依怙贔屓(えこひいき)もしない。それでなくても、いわゆる中途採用の秀吉は他者に比べて出遅れている。並みの働きでは信長に認めてもらえない。

 ようやく草履取りで、その存在を知られた秀吉は、次はおもに台所方の仕事にあたった。というより、おそらく彼には武芸の実力も武士の嗜(たしな)みもなかったから、頭角を現わすには裏方しかなかったのだろう。

 繰り返すが、信長は人を道具のように捉え、性能のみで考えていた。

 そのことを一番理解していた家臣は、おそらく秀吉だ。
「道具として、愛用してもらおう」

 秀吉は努めてそれに徹し、信長はそれを見逃さなかった。
「ふん、おもしろい」

 裏方であっても業績さえあげれば評価する。できる者には、より大きな仕事を任せるのが信長流だ。

 美濃攻略戦の頃には、秀吉は台所奉行となる。が、それで満足する秀吉ではない。彼には夢があった。

 信長の軍兵を預かり、合戦で織田軍の一翼を担う指揮官を“部将”という。秀吉はこの“部将”として、表舞台に立ちたかった。そこで彼は転属を願い出る。

 信長は人事について、形式やルール、慣例などにはとらわれない。家臣がやりたいと言い、それまでに実績さえ示していれば機会を与えた。

 そして信長は、秀吉に美濃方の敵将への調略(政治的工作)を命じる。秀吉は、持ち前のスキルを活かして信長の期待に応えた。やがて秀吉は“部将”として表舞台に踊り出る。

 この2人の関係はやや特殊だが、信長にとって秀吉は、自らが見いだし、実地に教育を施した人材だった。信長というトップが存在しなければ、秀吉はそのスキルを活かされず、不平・不満を抱えたまま、その一生を終えたに違いない。