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第2回・織田信長――滝川一益

「あの人のもとでは、働きたくない」

 そんな時代に、織田信長(1534~1582)は、どのように人材を獲得したのか。

 信長が美濃統一後に掲げた“天下布武(武力を使った天下統一)”という将来のビジョンは、家臣たちのモチベーションを上げるとともに、織田家の家臣だというプライドを持たせた。

 その一方で、信長は“天下布武”のスローガンを掲げることで、織田家の勢いを広く諸国に誇示し、さらに腕におぼえの武辺者(ぶへんもの=勇敢な武士)や知略に通じた人材を、織田家中に結集しようとしたのではなかったか。

 事実、信長のもとには全国各地から牢人たちが仕官を求めてやってきた。

 そんななか、信長のスカウトを断ったという、鹿島源五なる男のエピソードが伝わっている。

 この男、かなり名の知れた武辺者で、信長が人を介して高禄で仕官をもちかけたが、あっさり断られた。

「あの人のもとでは、働きたくない」

 おそらく信長の苛烈(かれつ)で冷酷な性格を知っていたのだろう。そして彼はこう続けたという。

「私は甲州の名門・武田家で働いてみたい」

 武田家は、いわば法令も制度も整っており、牢人を手厚く遇すると評判になっていたようだ。

 ただその頃、武田家では、主君・武田信玄(1521~1573)が中級クラスの家格にあった家臣を侍大将(家老職)に抜擢しようとしたところ、譜代の重臣たちが反対したため、その人事が沙汰やみとなっていた。

「そのような前例はありませぬ」

 確かに、信玄は「合議制」を取り入れ、広く家臣の意見を聞いた。また評判どおり、牢人にも寛容な態度で接し、高禄をもって召し抱えていたようだ。が、信玄が雇用した牢人のほとんどは、牢人だけの部隊(牢人頭の率いる独立部隊)の配属となった。おそらく源五も、この部隊に組み込まれただろう。

 牢人部隊は、どこの家でも最前線に立った。当然、命を失う確率は高くなる。もちろん、そこで結果を出せば恩賞はでたが、そこまでだ。それ以上の出世は望めない。

 当時、ほとんどの家では家臣の序列は決まっていた。譜代の重臣を飛び越えて、その下の家格の者、ましてや牢人が偉くなることはなかった。これが社会通念であり、常識でもあった。そうしなければ、代々、その家に仕えてきた譜代の将士たちが納得しないからだ。

 こうした譜代と外様、古参と新参の壁は、いつの時代でも存在する。

「ふん、くだらぬ」

 そんな社会通念や常識――壁――を完全に打ち破ったのが信長だ。