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第2回・織田信長――滝川一益

信長が領外からスカウトした最初の人材

 信長が“天下布武”に邁進し、天下統一に王手をかけた頃、織田家の方面軍を率いていた部将は6人いる。柴田勝家(1522?~1583)、佐久間信盛(1527?~1581)、丹羽長秀(1535~1585)、滝川一益(1525~1586)、明智光秀(1516?~1582)、羽柴秀吉(のち豊臣、1537~98)だ。

 このなかで、信長が尾張以外から最初にスカウトした人材が滝川一益だった。一益は信長より9歳年上。天文年間(1532~1555)に仕えたとされるから、桶狭間の戦い(1560)の前には信長の近くにいる。

 近江の甲賀出身といわれる一益は、人を殺(あや)めて村を追い出され、諸国を流浪した末、信長に仕えたと伝わっている。そのためか、一益は諸国を巡る山伏、あるいは忍びであったともいわれ、さらには諸国を流浪する中で鉄砲の技術を身につけ、その腕を信長に買われたとの説もあった。

 戦国武将のなかで、信長はかなり早い段階で最新兵器・鉄砲の威力に注目する。彼は16、17歳の頃から日常的に鉄砲の訓練をおこない、実戦でも自ら率先して使用した。

 信長は人を道具――たとえば鉄砲のように捉え、性能のみで考えていた。だから身分や出自を問わず、その人物をみて召し抱えた。信長が一益の鉄砲の腕を買ったかどうかは定かではないが、いずれにせよ、彼は他国出身の一益を気に入った。

「この男、使える」

 ただ、一益が織田家中で頭角をあらわすのは信長の北伊勢攻略戦だ。そのことを考えれば、おそらく信長が一益を召し抱えた理由は、自分にはない人脈を持っていたことだろう。

 一益は甲賀の忍びや伊賀者とパイプをもち、他国の情報を仕入れては信長を喜ばせた。そして永禄10年(1567)に、信長が美濃攻略戦と並行して北伊勢への進出を企てると、一益はその人脈を持って同地の国人や土豪たちの懐柔に成功。やがて信長より北伊勢五郡を与えられた。

 その後、一益は北伊勢を拠点に、織田家の遊撃軍を率いて各地を転戦する。彼は前線の指揮官としても勇猛で、殿軍(後衛、しんがり)を任せても手際よく退却したことから「進むも滝川、退くも滝川」と激賞される。

 できる者には、より大きな仕事を与えるのが信長流だ。一益は信長の過度な起用に対し、時に大胆に、時に慎重に応えていく。

 そして天正10年(1582)2月の甲州征伐のおり、織田軍の主力は信長の嫡男・信忠の軍勢だったが、その傍らに一益の軍が添えられた。

「信忠を頼む」

 やがて信忠軍は、信濃を無人の野を行くが如く進軍し、甲斐の武田家を追い詰める。そして天目山の戦いで信玄の後継者・武田勝頼の首級をあげたのは一益の軍だった。

 繰り返すが、信長は身分や出自を問わず、その人物をみて召し抱えた。そして結果さえ出せば広大な領地やそこでの権限を与えた。そのような家は当時、織田家だけだった。これは信長が創りあげた織田家の家風といってよい。

 一益は人事考課に厳しい信長のもとで生き残り、やがて上野と信濃二郡を与えられ、厩橋城主となる。そして彼は牢人の境遇から「関東方面軍司令官」という最高幹部の一人にまで上り詰めた。

 一方、「私は甲州の名門・武田家で働いてみたい」と信長のスカウトを断った鹿島源五なる男が、その後、どうなったかは不明だ。ただ武田家滅亡の最大の原因は、勝頼が譜代の重臣たちをまとめきれなかったところにあった。源五は憧れの武田家に仕えたあと、その家風に幻滅しなかったか……。

 優秀な人材を獲得したければ、待遇や自社の将来性を丁寧に説くことはもちろん、その人物の活動を妨げない風通しのよい社風をつくる必要がある。これはいつの時代も同じといえそうだ。