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最強の剣豪にして、優れた文化人!マルチな才能を発揮していた宮本武蔵

30歳を境に、ガラリと生き方を変えた柔軟性

宮本武蔵といえば「剣豪」。つまり、戦いに明け暮れた武芸者。そんなふうにイメージされる方が多いでしょう。しかし、実際の彼はマルチな才能に恵まれた奥の深い人物でした。芸人と政治家を兼ねる人や、文武両道のアスリートがいますが、彼もまさにそんな人だったのです。

確かに若いころの武蔵は、諸国を遍歴し、生涯に60戦以上の勝負に臨み、そのすべてに勝利したといわれます。しかし、積極的にそうした戦いの場に挑んでいたのは30歳ぐらいまで。それ以降はガラリと生き方を変え、大名家の軍事顧問を務めたり、芸術活動に打ち込んだりするようになりました。

その理由として考えられるのは、戦国の世が終わって、天下泰平の江戸時代が到来したことです。武蔵が30歳を過ぎたころに「大坂の陣」があり、それ以降は1637年の「島原の乱」を除けば、大きな戦乱はありませんでした。そうした時代の変化に対応できる器用さも持っていたのでしょう。若いころのような無茶ができなくなった、という肉体的な問題や、精神的な落ち着きによる心境の変化もあったかもしれません。

1618年ごろ、武蔵は姫路の大名・本多忠政(ほんだ ただまさ)や、明石の大名・小笠原忠真(おがさわら ただざね)と親交を持ち、客分として招かれます。それらの城に滞在中、剣や武術の指導を行なったほか、築城や町の設計に携わりました。また城内や周辺にある寺院の作庭(庭園づくり)も行ったそうです。武芸者としてだけでなく、知識人として重宝されていたことが分かります。

そうした生活の中で、武蔵は三河の大名・水野勝成(みずの かつしげ)の子、三木之助(みきのすけ)を養子として迎えました。そして、この三木之助を姫路の支藩の統治者、本多忠刻(ただとき)に推薦し、雇ってもらうよう頼んだのです。ほかならぬ武蔵の頼み。藩主の忠刻も喜び、三木之助に知行700石を与えて家来に迎えました。武蔵はこれを機に、「宮本」という故郷の地名をとり、宮本姓を名乗ったともいわれます。武家としての宮本家が誕生したのです。

有能な若者を養子に迎え、家名を残す

また44歳の時、明石に滞在していた武蔵は、当地の藩主・小笠原忠真に仕える田原貞次(たはら さだつぐ)という15歳の若者を養子に迎えました。貞次は名を宮本伊織(いおり)と改めます。その後、メキメキと出世。20歳の若さで小笠原家の筆頭家老に昇進し、知行4000石の身分にまでなり、宮本家を子々孫々へつなぎました。伊織自身に才覚があったことはもちろん、それを見抜いた武蔵の眼力も相当なもの。武蔵のネームバリューも出世の助けとなったかもしれません。

武蔵は、しばらく隠居の身として明石に滞在していましたが、息子の成長を見守った後、熊本へ向かいます。そして熊本城主・細川家に300石で招かれ、晩年の5年間を熊本で過ごしました。そこで『五輪書』を執筆したことで知られますが、合間に水墨画を描くなど、芸術活動にもいそしみました。彼が描いた絵のいくつかは、重要文化財として今に残っています。

最強の剣豪にして芸術家、知識人でもあった武蔵。まさに「引く手あまた」で、どこへ行っても歓迎されました。マルチな才能を発揮し、息子たちを出世に導いた武蔵は、自分を売り込む手腕、つまりプロデュース能力にも長けていたのでしょう。城下にとどまってくれるよう苦心する大名たちの姿が、目に浮かぶようです。

武蔵には実子がいませんでしたが、その代わりに養子を大名家の重臣とし、家名を残しました。また、『五輪書』に自らの教えを残してもいます。その『五輪書』のうち「水の巻」にある最後の言葉を紹介しましょう。

「千里の道も一歩ずつ足を運ぶのである。ゆっくりと時間をかけ、この道を修行することが武士の本分と考えよ。千日の稽古を鍛(たん)とし、万日の稽古を練(れん)とする。よくよく吟味あるべし」

ひたすら毎日、繰り返し稽古に励むこと。生まれつきの才能だけではダメで、何ごとも修行であり、その積み重ねが大事であると、武蔵は説いているのです。

文・上永 哲矢(うえなが てつや) 
参考文献:『五輪書』ほか

DODAキャリアアドバイザーからのコメント

宮本武蔵の功績から学ぶ
時代の変化を敏感に感じ取り適応していく力

剣豪、養子の育成、大名家の軍事顧問、芸術活動と、さまざまな環境で才能を発揮した宮本武蔵。これらのエピソードから伺えるのは、時代の変化を敏感に感じ取り、今自分にどのような働きが求められているのかを常に理解して実行していたという武蔵の適応力です。剣豪として一度名を馳せましたが、戦国の世が終わり、天下泰平の江戸時代が到来すると、常人なら惜しむであろうその名声にしがみつくことなく、知識人としての道へ方向転換しました。時代の流れとともに必要とされる人材の能力・スキルは変化していくことを武蔵はよく理解していて、この変化に柔軟に対応しました。

武蔵に、「自分が変わらなければ、時代に取り残される」という危機感があったかどうかは定かではありませんが、現代においても、「今、この時代の変化に対応しなければならない」という危機感をもって先んじて行動することは大切です。例えば、自分のいる会社の事業が将来縮小する可能性が高いとき、皆さんはどのように行動するでしょうか。実はこうしたとき、転職を決断する方はなかなかいません。長年積み重ねてきたキャリアを変えるのは大変勇気の要ることですし、転職して年収ダウンからスタートすることを懸念する気持ちもあるでしょう。しかし、将来性のある事業の会社に転職すれば10年後、今より年収はむしろ上がる可能性もあります。逆に、今の会社にとどまることで、今後10年で事業縮小とともに年収ダウンや、もしくは仕事自体がなくなってしまうリスクもあります。年齢が上がるにつれて、求められるスキルや経験のレベルは上がるので、必然的に転職活動の難易度も上がっていきます。中長期的な視点で見れば、転職したほうが良い、という見方もできるのです。

「転職というリスク」を懸念する方はたくさんいますが、「転職という変化のリスクをとらないことによるリスク」はなかなか目を向けられないものです。武蔵は、「変化によってキャリアを一から積まねばならない」というリスクより、「自ら変化しなければ、時代の流れについていけなくなる」というリスクに目を向けて、剣の道一本に絞らず、築城や武術指導など、多才な人材へと進化を遂げたのではないでしょうか。だからこそ、複数の大名から重宝される人材になれたのです。

今自分にとっての本当のリスクとは何か?5年後、10年後どのような変化が起き、今のうちにどう行動すべきか?30歳以降の宮本武蔵の“ビジネスマン”としての活躍に目を向けると、常に先のことを考えて手を打つことの大切さを学ぶことができます。

中谷 正和

パーソルキャリア株式会社
DODAキャリアアドバイザー

アドバイザー

2007年に株式会社インテリジェンス(現・パーソルキャリア株式会社)に入社し、キャリアアドバイザー/法人営業の双方を担当後、現在はミドル~エグゼクティブクラスのさまざまな業界で活躍されている営業職の方々の転職支援を担当。業界や職種を変えての転職成功も多く実現。国家資格キャリアコンサルタント保有。

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