幕末に活躍した人物といえば、坂本龍馬の名前を真っ先に挙げる人は多いでしょう。同時代の西郷隆盛、勝海舟といった偉人と交流し、時代を切り開こうとした龍馬ですが、その収入、気になりませんか。彼はどのようにしてお金を稼ぎ、いくらぐらい得ていたのでしょうか?

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どんなことをした人だった?
改めて経歴から…

坂本龍馬プロフィール

履歴書

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幕末を代表する志士、坂本龍馬の功績と
そのマネジメントスタイルは?

主な功績

  • 功績
    功績

    勝海舟が神戸に海軍操練所(海軍学校)を建設すると、弟子の龍馬もそれに同行し、操練所に併設された勝の私塾に入門します。龍馬はここで船の操り方などを学びつつ、勝の片腕として働きました。この経験がのちの「亀山社中」「海援隊」の下地になったのです。

  • 功績
    功績

    龍馬は、同じ土佐出身者をはじめ、各藩を脱藩した浪人の同志たちと「亀山社中」を設立。これは海運業、海軍、航海術の養成所を兼ねた組織でした。薩摩藩の名義を使い、海外から武器や軍艦を調達し、長州などと取引したのです。この「亀山社中」は、のちに土佐藩の外部団体として活動する「海援隊」へと発展しました。この海援隊からは、のちに明治政府の要人が数多く生まれています。

  • 功績
    功績

    当時、薩摩藩と長州藩の主流派は、同じ「倒幕」という目的をもっていましたが、この2藩は犬猿の仲でした。龍馬は「各藩の体面ばかり考え、国全体のことを考えることを忘れてはいけない」と、この2藩に手を組ませることによって(薩長同盟)、徳川幕府に対抗できる勢力をつくりあげ、大政奉還へとつなげたのです。

  • 功績
    功績

    大政奉還とは、それまで徳川将軍家が行っていた政治の権限を朝廷(天皇)に返上すること。このアイデア自体は龍馬のオリジナルではなく、以前からありました。しかし、それをいざ実行しようという動きが活発化したのは、龍馬が土佐藩に建白書を出すよう提案したから、といって良いでしょう。

坂本龍馬のマネジメントスタイル

強い信念と抜群の行動力で
『人』を動かした

リスクを冒してまで信念を貫く姿勢!

江戸で剣術修行中、ペリーの黒船来航の騒動を体感した龍馬。世界の広さを実感し、危機に見舞われつつある日本を救うには、どうすればいいかを考えた結果、脱藩します。当時、脱藩は重罪。しかし、藩という枠にとらわれていては自由な活動ができません。リスクを冒して、「フリー」の身になって奔走しました。

物おじせず人脈を広げる!

幼少時は気弱な少年だったようですが、江戸に出てからは次々と人脈を広げていきました。そして佐久間象山、松平春嶽、勝海舟といった、名のある人物たちと面会にこぎつけます。龍馬は一介の脱藩浪士に過ぎませんでしたが、剣術修行で名を上げ、学識を高め、自信をつけたことでその人物が認められたのです。

弱い側の心情を察し、人を動かす!

「薩長同盟」の交渉の席で、押し黙ったままの西郷隆盛(薩摩)と桂小五郎(長州)。お互いのプライドが邪魔しあい、10日ほど経っても話が進展しませんでした。龍馬は当時、朝敵とされ、追い詰められていた長州側の心情を察し、西郷に「長州の立場を察し、薩摩から同盟を申し出てほしい」と頼み込みました。龍馬を信頼していた西郷は、これを受け入れて話を進めたのです。

筆まめ!

今であればメールやSNSをフル活用するように、龍馬はとにかく、たくさんの手紙を書いた人でした。姉への近況報告から、「新国家」という言葉を使った政治的なものまで、現存するだけでも約140通もの手紙が確認されています。この手紙による根回しやコミュニケーションが、交渉や人脈づくりに活かされたのです。

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坂本龍馬の気になる年収は…

年収

年収

年収

知名度の割に少ない!と思われるでしょう。
脱藩前の龍馬は、裕福な商家の分家の次男だったこともあり、職に就かなくても生活に困りませんでした。
ただ、脱藩して江戸へ出てからは本当の無職となり、
お金に苦労したようです(資金源は、ほぼ実家からの援助)。

勝海舟の海軍塾で職を得たかと思えば、約1年で閉鎖。
その後、1865年に設立した「亀山社中」では、1人当たり毎月3両2分(10万円ほど)が薩摩藩から支払われました。
「海援隊」設立後(1867年春)は、少しアップして
土佐藩から1人当たり毎月5両(15万~20万円)が支給されることになったのです。
その3年間の平均年収を出すと、多く見積もっても150万円程度でした。
このほか長州藩からの武器代金など、海援隊が独自に稼いだ収入もあったため、
実際はもう少し多かったと思いますが、 隊の運営費などを考えると、
龍馬自身の懐にはほとんど入らなかったのではないでしょうか。

※また一説によれば、海援隊の設立時には、
「わしは隊長だから」と岩崎弥太郎に掛け合い、自分の分を十倍の50両にしてもらいました。
そう考えれば、約1800万~2000万円の年収が保証されたことになります。
おそらく龍馬は、それを名目に、隊の活動資金をもっとたくさん得たかったのでしょう。
しかし、海援隊結成から約半年後に龍馬は暗殺され、隊も解散しました。
その後も存命であれば、もっと多くのお金を稼いだに違いありません。

※当時の1両=3万~4万円で計算。
1両は江戸時代中期には10万円程度でしたが、幕末には下落していました。

文・上永 哲矢(うえなが てつや) 
参考文献:坂本龍馬伝、坂本龍馬 海援隊始末記、龍馬史ほか

DODAキャリアアドバイザーからのコメント

坂本龍馬の視座の高さと
強い達成志向が日本を動かした!

坂本龍馬をビジネスマンとして捉えた場合、彼がとても優れていたのは圧倒的な視座の高さと、目的を成し遂げるまで粘り強く取り組む達成志向です。坂本龍馬はペリーの来航を目の当たりにしたことで、「このままでは日本の将来が危ない、外国に負けない強い日本をつくらなければ」という危機感を持ち、現状を変えるためにリスクを承知で脱藩しました。すでにこの時点で龍馬は「自分」ではなく「日本」を主体に、物事を考えて行動していたことが分かります。

また薩長同盟の仲介もさることながら、大政奉還も「日本を強くするためには、国内で争いをしないほうが良い」という考えの元で行われた平和的解決でした。すべての行動が龍馬の「強い日本をつくる」というビジョンに沿っており、着実に目的を達成する、強い達成志向性を持っていたことがうかがえます。

そんな龍馬ですが、戦略マネジメントの才能もありつつ、自身でその戦略を実行していきたいプレイヤー志向も持っているように見受けられます。現代でいえば、社長として大規模な組織をマネジメントするよりも、ベンチャーキャピタルのコンサルタントのように、戦略アドバイス・資金調達・人脈を支援するという立場のほうが、彼の才能を発揮できるのではないでしょうか。「一度自分が育てると決めた企業は、どんな手段を使ってもスケールさせる」という強い意志を持った龍馬のパフォーマンスは計り知れないですね。現代のビジネスパーソンとして働いていれば、当時の年収よりも大分多く稼ぐことができたのではないかと思います。

芝本 圭次郎

パーソルキャリア株式会社
DODAキャリアアドバイザー グループリーダー

アドバイザー

2007年パーソルキャリアに入社。IT業界の法人営業を担当した後グローバル領域の新卒採用として、ASEAN留学生の採用を支援。その後はIT領域専任のDODAキャリアアドバイザーとして5年間で、約1500人の転職活動を支援した実績を持つ。現在は管理職や、エキスパートなどエグゼクティブ層の転職支援を行うチームのリーダー。

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