西郷(せご)どんの愛称で親しまれる西郷隆盛。江戸幕府を倒し、明治という新しい時代を切り開いた「明治維新」の立役者、西郷どんの気になる年収。いったい、どのぐらいだったのでしょうか?

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どんなことをした人だった?
改めて経歴から…

西郷隆盛プロフィール

履歴書

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明治維新の立役者、西郷隆盛の功績と
そのマネジメントスタイルは?

主な功績

  • 功績
    功績

    西郷は27歳のとき、第11代薩摩藩主・島津斉彬の側近として初めて江戸へ出て、庭方役(にわかたやく)を命じられます。これは庭の手入れなどをする下っ端の仕事でしたが、藩主の近くに控え、密談がしやすい立場でもあったのです。西郷は、だんだんと重要な仕事をこなし、そこで結果を出し続けることで藩内外での名声を高め、薩摩藩を代表する人物へと成長しました。

  • 功績
    功績

    当時、薩摩藩は幕府にくみしていました。そのため、長州藩の征伐を命じられた薩摩藩は主力として攻め込みます。征長軍参謀として、その指揮をとった西郷ですが、長州藩を武力討伐することを避け、話し合いで収拾をはかりました。西郷の働きにより、長州藩は家老3名の切腹だけで許され、存続の危機を回避したのです。

  • 功績
    功績

    戊辰戦争が始まると、西郷は東征大総督府下参謀に任じられ、新政府軍の事実上の総大将として江戸へ進軍します。3月15日が江戸総攻撃の日と定められていましたが、静岡まで来たときに幕臣の勝海舟から江戸無血開城の申し出を受けます。西郷は勝と2日間にわたって交渉し、江戸総攻撃を中止。江戸を無血開城させることで決着。これで江戸の町は戦場となることを免れたのです。

  • 功績
    功績

    廃藩置県とは、江戸時代にあった「藩」をなくし、その代わりに「県」(現在の都道府県の原型)を置いた政策。つまり大名から土地を取り上げ、新政府のものにして中央集権をはかるものでした。反発が起きることは必至でしたが、西郷は「暴動など起これば、おいがすべて鎮圧しもす」と豪語。御親兵を各地に配し、騒動や反乱が起きないよう準備したうえで断行しました。現代に続く、明治という新しい国家の体制が、こうして整えられていったのです。

西郷隆盛のマネジメントスタイル

人を愛し、愛され、あらゆる場に必要とされた

剣術を断念するも、学問で身を立てようと決意

12~13歳のころ、西郷はけんかで右腕に重傷を負ってしまい、剣術をあきらめなければならなくなりました。武士が刀を握れなくなるという無念さは、察するに余りありますが、西郷はこの挫折をバネにして、学問に一層身を入れるようになりました。この猛勉強に励んだ日々が、後に指導者として藩を背負って立つ下地にもなったのです。

島民を味方につけ、復帰の機会を待った

尊敬する主君・島津斉彬が亡くなったあと、次に藩の実権を握ったのは島津久光でした。西郷はこの久光と折り合いが悪く、2度も島流しの憂き目に遭います。流罪先では厳しい監視付きの幽閉生活で、死罪に次ぐ重罪人扱い。しかし、西郷は島の人々に好かれ、援助を受けたり、有力者の娘と結婚し、3人の子供をもうけることにもなりました。普通ならそのまま島で一生を終えてもおかしくない状況でしたが、西郷は藩士として復帰を果たしました。政局に通じ、人望もある西郷を薩摩藩も放ってはおけなかったのです。

攻撃前日に大英断を下す

当時、人口100万人を超える世界最大規模の都市であった江戸と、その住民を戦火に巻き込まずに済んだのは、西郷の英断による成果でした。西郷は、幕臣・勝海舟の苦しい立場を理解し、熟慮の末に無血開城を決めたのですが、それは実に江戸城攻撃の前日でした。「天下の識見、議論では西郷に負けぬが、天下の大事を決する人物は彼西郷である」と、勝は西郷を讃えています。

人を愛した

西郷の書に「敬天愛人」という有名なものがあります。「敬天」は天をおそれ敬うこと。「 愛人」は人をいつくしみ愛することです。イギリスの外交官アーネスト・サトウは、「彼は巨大な黒ダイヤモンドのように光る眼をもっていた。口を開くと、何ともいえぬ愛嬌がこぼれ親しみがあった」と西郷を評しています。この「敬天愛人」の姿勢で、多くの人の心を掴んだのでしょう。

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西郷隆盛の気になる年収は…

年収

年収

年収

薩摩の下級武士の家に生まれた西郷。
17歳で、郡方書役助という初仕事に就いたとき、その年収は41石でした。
現在のお金に換算すると200万~300万円。
西郷家は大所帯だったので、生活は大変だったようです。
それから約30年後、晩年の明治4年になると、
維新の立役者となった西郷は「陸軍大将兼参議」に昇ります。
このときの月給600円を、おおよそ1年分にしたものが、上に記した1億5000万円です(※)。
これは太政大臣(800円)に次ぐもので、当時の明治新政府の役人の中でトップクラスでした。
東京で明治政府に出仕していたころ(明治4~6年)は、日本橋にあった2600坪もある広い屋敷に住み、
長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を何頭も飼っていたそうです。
しかしその後、西郷は新政府を辞めて鹿児島へ帰り、西南戦争で亡くなるまで東京に戻ることはありませんでした。

※明治時代の1円=現在の2万円で換算。過去の貨幣の価値を現在の貨幣の価値に換算することは困難です。
よって、この金額は各種の物価指数を利用して算出した、おおよその値です。

年収

年収

平成29年12月15日内閣府「主な特別職の職員の給与」によると、総理の年収は4015万円です。
西郷隆盛はその4倍ということになります。
よく、「貰いすぎ」と言われがちな政治家の給与、そう考えると妥当なのかもしれません。
今年の大河ドラマ「西郷どん」の主人公の年収、あなたはどう考えますか?

文・上永 哲矢(うえなが てつや) 
参考文献:『官員録』、日本銀行資料ほか

DODAキャリアアドバイザーからのコメント

もし西郷隆盛が現代のビジネスマンだったら

役職・年代関係なく相手の気持ちを理解することで、ものごとを進めてきた人物。

相手の立場を理解し、周りからとても慕われていた西郷隆盛。そんな西郷隆盛を現代のビジネスマンとして捉えたときに、彼の強みになるのはその「共感力の高さ」と、どんな場所でも自分のミッションを見つけて遂行するための「当事者意識の高さ」です。

まず「共感力の高さ」に関しては地位・年代関係なくさまざまな立場の人に、フラットに耳を傾けることができる強みを持っています。貧しい家庭の出身だった西郷隆盛ですが、自分の地位が高くなっても決しておごらず、相手が誰だろうと常に対話を行い、周りの人の気持ちを理解しながら物事を進めることができたのです。現代でいえばトップダウンではなく、ボトムアップなマネジメントを行うことができる人物でした。

また「当事者意識の高さ」に関してですが、西郷隆盛はさまざまな挫折に遭いつつも、決して腐らずに「その時自分には何ができるのか」を考え、コツコツやり続けることができる強いメンタルを持っていました。その当事者意識が周りにも伝わり、いろんな人から頼りにされて慕われていったのでしょう。もし彼が現代の企業の組織にいた場合でも「ミッション」を自分なりに考え、着実に遂行できる力を持っていたと思います。

そんな西郷隆盛ですが現代でいえば、急な成長を遂げたメガベンチャーの管理職で活躍できたのではないかと思います。例えば、成長の過程で社員規模が急に拡大したベンチャー企業が迎える壁の中に、人数の壁というものがあります。もちろん企業によっても違いますが、急な組織の拡大からマネジメントが行き届かなくなり、社風も少しずつ変わり始め「組織の風通しが悪くなってきた…」と感じる社員が出てくる時期のことです。そんな変革期のベンチャー企業の中で、しっかりメンバーの気持ちの変化や意見に耳を傾けながらも、取り組みを着実に進めることができる西郷隆盛のマネジメントスタイルは、大きな武器になると思います。また、上の方針が固まらない…ミッションがころころ変わる…など変化の激しい環境に加え、上に上司がいて下にメンバーがいるというつらい板挟み状態でも、西郷隆盛は「今自分には何ができるのか?」を考えて、コツコツこなしていけるのではないかと思います。決して環境のせいにして腐らず、でも着実にこなしていく芯の強さは彼の一番の強みですね。

沖元 宏行

パーソルキャリア株式会社
DODAキャリアアドバイザー

アドバイザー

2008年にメガバンクに法人営業担当として入社。2012年に大手人材広告企業に転職し、転職希望者向けのキャリアアドバイザーと法人向けの採用支援を担当。その後自身で起業し、法人向けの人材採用支援や採用代行の業務を行う。2016年1月、パーソルキャリア株式会社に入社し、現在は管理職やスペシャリストなどエグゼクティブ層の転職支援を行うDODAキャリアアドバイザー。

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