265年も続いた江戸時代、その権力の頂点に君臨していたのが征夷大将軍。15代にわたって続いた歴代将軍の中でも、8代・吉宗は「暴れん坊将軍」のモデルにもなった有名人ですね。さて絶大な権力を誇っていた彼の年収、一体いかほどだったのでしょうか?

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どんなことをした人だった?
改めて経歴から…

徳川吉宗プロフィール

履歴書

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徳川吉宗の功績やマネジメントスタイルは?

主な功績

  • 功績
    功績

    本来、江戸の将軍に就任できるのは、徳川家の直系男子だけ。しかし、7代将軍の徳川家継が、わずか8歳で死去。そこで「徳川御三家」のひとつ、紀州藩の藩主であった吉宗(当時33歳)が8代将軍に抜擢されたのです。いわば支社長から本社の社長への転身です。他にも将軍候補がいた中で彼が選ばれたのは、抜群の強運を持っていただけでなく、日ごろの努力研鑽の成果といえるでしょう。

  • 功績
    功績

    「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるほど火災が多かった江戸の街。吉宗が主導した「享保(きょうほう)の改革」の一環が、町火消し(町人組織による火消し組)の設置です。隅田川の西側に「いろは四十八組」を編成するなどして防災に取り組みました。実務にあたったのは、時代劇でも有名な南町奉行・大岡忠相(ただすけ=越前守)。その取り組みは吉宗のもとにも逐一報告されていたでしょう。

  • 功績
    功績

    吉宗は、町医師・小川笙船(しょうせん)が出した投書を読み、大岡忠相に命じて貧民対策のための小石川養生所(現在は小石川植物園=東京都文京区)を設置させました。診療費は無料、衣食住も付いた病院でした。黒澤明監督の映画『赤ひげ』は、この養生所を舞台とした物語です。

  • 功績
    功績

    幕府が財政難に陥るなか、吉宗は倹約と増税(上米<あげまい>の制など)、豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法(じょうめんほう)などにより財政再建を目指しました。1736年「元文の改鋳」では、貨幣に含まれる金銀の量を下げる代わりに供給量を増やし、長く続いていたデフレからの脱却に成功。この一連の政策を「享保の改革」と呼び、江戸の三大改革の中で最も成功した例とされます。

徳川吉宗のマネジメントスタイル

暴れん坊の異名も伊達じゃない、
行動派のトップリーダー!

質素倹約をみずから実施!

紀州藩主に就任した当時、大名や幕臣たちの生活が華美になっていることを憂えた吉宗は、「質素倹約」を命じました。もちろん、自分だけ贅沢をしていたわけではありません。高級な絹ではなく木綿製の着物を身につけ、食事は朝夕2食、一汁三菜にとどめる粗食に甘んじました。これにより、一時は幕府の金蔵に100万両ほどの貯金ができたそうです。

庶民の声に耳を貸す

吉宗は紀州藩主時代、和歌山城下に「訴訟箱」を設置し、領民たちの投書にみずから目を通しました。この習慣は将軍就任後も続き、上述した町火消しや小石川養生所の設置、新田開発の実施につながりました。後世、「目安箱」と呼ばれ、吉宗の政策を代表するものとして語り継がれています。

自己鍛錬を怠らず

吉宗は身長が六尺(約180cm※)を超え、色黒で怪力を誇ったといわれます。幼少期に力士と相撲をとって勝ったとか、大イノシシを鉄砲で殴りつけて倒したなどの逸話があります。これらが「暴れん坊将軍」の元ネタでしょう。実際、将軍になっても柔術や鷹狩りを行い、鍛錬を欠かしませんでした。特に1726年には16万人もの人々を動員しての大規模な鷹狩りを行っています。泰平の世に慣れきった武士たちを引き締め、武士道精神の回復をはかる狙いがあったようです。

※当時の平均身長と変わらない155cm(菩提寺の愛知県・大樹寺に収められている位牌の高さから)だったとの説もあります。

旺盛な好奇心

強い好奇心の持ち主だった吉宗。当時、幕府は鎖国体制下にあり、洋書の輸入も厳しく制限していましたが、吉宗はキリスト教関連以外の書物に限り、洋書の輸入を解禁しました。また1728年、ベトナムからゾウを輸入し、長崎から江戸まで運ばせ、現在の浜離宮で見物しました。このゾウは20年ほど中野のゾウ舎で飼育され、1749年に死んだそうです。幕府の御用絵師が描いたゾウの絵が現存しています。

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徳川吉宗の気になる年収は…

年収

年収

年収

約260年もの間、全国を支配していた徳川幕府の天領(幕府が直接統治していた土地)の総石高は、
吉宗の時代にピークを迎え、463万石に達しました。
そこから得られた年貢収量が4割程度の約180万石。
1石を10万円として計算すると、最高で約1800億円が徳川幕府(=将軍)の収入になったと推定できます。

しかしそこから幕臣たちへの給与や公共事業にかかる経費、
大奥の運営などを差し引くと残りはわずかだったでしょう。
将軍の生活費は、その残りから捻出されていたようです。
将軍は公人ですから、生活にかかる費用は幕府の負担で賄いますし、
身のまわりのことで必要な分は、自身の裁量で決裁できたと思われます。
よって、個人年収は「実質0円」と考えても良いでしょう。

それでも実際、どのぐらいの金額を使えたのか気になるところ。
そこで、将軍が家族(妻子)を養っていた「大奥」の年間経費20万両(幕末のころ)に目を向けます。
江戸時代中期の10万円換算で計算すると約200億円。
その中から、将軍の家族のために費やされた額を10%と推定して、約20億円。
よって将軍が自分や家族のために自由に使えたお金(=年収)は、約20億円と推定しました。

ちなみに、現在の日本の国税収入が約58兆円(財務省調べ)なので、
幕府の収入はそれに比べれば非常に少ないように思われますが、
江戸時代の日本は厳密には統一国家ではなく、年貢は国税ではありませんでした。
各地方を治める大名たちが独立採算制(幕藩体制)を敷き、それぞれの土地で税収を得て、賄っていたのです。

※1石(こく)=大人1人が1年間に食べるであろう米の生産高。ここでは1石を10万円と計算。
相場にはさまざまな算出方法があり、また時代によっても大きく変動しますが、
江戸時代の前期~中期ごろの、おおよその平均値を10万円として計算しました。

文・上永 哲矢(うえなが てつや) 
参考文献:『徳川実紀』『徳川将軍家十五代のカルテ』『江戸の家計簿』ほか

DODAキャリアアドバイザーからのコメント

もし徳川吉宗が現代のビジネスマンだったら

莫大な財政赤字を抱えていたのにもかかわらず、自らも質素倹約に努め幕府を立て直した徳川吉宗。取り組んできたことは派手ではありませんが、現代でいえばリーマン・ショックのような不景気な時代に「守りの経営」を考えることができる優秀な人物だったのではないでしょうか。

彼の取り組みを見てみると「財務」や「調達」などバックオフィス系の分野の取り組みが得意だったのではないかと思います。実はリーマン・ショック当時、経営を維持するための資金繰りに困っていた企業は、会社にキャッシュを残してくれる優秀な財務を確保するのに必死でした。ただの財務管理というよりも、どのように資金を調達するべきなのか、何を削って何を残すべきなのかを率先して考える経営戦略に近いポジションでの財務が必要だったのです。

それを考えると吉宗は、一定の売り上げ・利益を安定して確保できるようにする仕組みを作る一方で、目安箱の設置や窮民を救う療養所をつくるなど、コストカットをベースとしながらも、人々の暮らしに本当に必用なものを見極めて投資ができる人物だったと思います。コストカットをベースとした経営をした第一人者といえるでしょう。

現代でいえば大手メーカー企業のCFO(最高財務責任者)などで活躍ができたのではないでしょうか。

三橋 祐輝

パーソルキャリア株式会社
DODAキャリアアドバイザー

アドバイザー

2008年にパーソルキャリア株式会社に入社し約6年間、日系・外資系製造業の営業担当として採用支援に従事。現在は管理職やエキスパートとして活躍するハイクラスの製造業エンジニアを中心とした転職支援を担当。転職希望者の強みを引出し、企業の事業課題に基づいたポジションメイク提案を得意とする。

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