お金といえば、無意識にこの人の顔を思い出す、あるいは1万円札のことを「諭吉さん」と呼んだことのある方も多いのではないでしょうか? そう、慶應義塾の創始者にして、『学問のすゝめ』の著者・福澤諭吉。彼は一体、どれほどの年収を得ていたのでしょうか?

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どんなことをした人だった?
改めて経歴から…

福澤諭吉プロフィール

履歴書

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福澤諭吉の功績やマネジメントスタイルは?

主な功績

  • 功績
    功績

    25歳のとき、大坂の適塾で塾長を務めていた諭吉は、中津藩から江戸での蘭学教授を命じられ、築地に塾を開きます。そして35歳のとき、塾を芝(港区)へ移し、当時の年号(慶応)にちなみ「慶應義塾」と名付けました。塾生から毎月の授業料を取ったり、学生食堂(学食)を設けるといった運営方法は日本初。実に150年前のことです。

  • 功績
    功績

    「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云えり」のフレーズで名高い著書『学問のすゝめ』。これは「人間は生まれながらに上下の差はないはず。しかし、現実がそうでないのは何故か?」という問いかけで始まる本です。誰もが読みやすいように漢字に読み仮名を振るなどして、300万部の大ベストセラーとなりました。「学ぶことの大切さ」とともに、「人には自由や平等という権利がある」ということを、当時の日本人に広く知らしめたのです。

  • 功績
    功績

    東京日日新聞や報知新聞などとともに「東京五大新聞」と呼ばれた『時事新報』は、1936年(昭和11年)まで刊行されました。新聞として初めて「お天気マーク」を使った天気情報、料理レシピや漫画などを載せる斬新な内容は、現代の新聞の原型にもなっています。

福澤諭吉のマネジメントスタイル

斬新な発想のもと、前進しつづけた
向上心の塊

すばやい発想転換!

幕末のころ、江戸に出てきた福澤諭吉。必死に学んだオランダ語で外国人に話しかけましたが、まったく通じませんでした。来日したイギリス人やアメリカ人たちの公用語は、日本人になじみの薄い英語だったからです。ショックを受けた諭吉でしたが、すぐに「これからは英語だ」と思い立ち、英語とオランダ語の辞書を使って独学で勉強を開始。その後の本格的な学習の結果、英語に通じるようになりました。

迅速なアウトプット!

諭吉は27歳のとき、幕府の遣米使節の一員としてアメリカへ渡りました。以後も2度の欧米行きを経験した諭吉は、帰国するたびにその経験を『西洋事情』『西洋旅案内』といった著作にまとめました。その中で、外国為替や保険の制度、銀行の仕組みおよび人力車の元になったベビーカーや、喫煙のマナー、洋式トイレの使い方などを紹介。日本人に先進的な文明を知らしめたのです。

努力家

生真面目で品行方正というイメージを持たれがちですが、諭吉はかなり個性的な人でした。子どものころは大のいたずら好き。幕府の上役と衝突して謹慎を言い渡されたこともあります。しかし、何より努力家でした。必要な本が手に入らない時は借りて全部書き写したとか、武士の嗜みである剣術も晩年まで猛練習を毎日欠かさなかったなど、自己鍛錬を示す逸話も多く残っています。飛び抜けた努力家といえるでしょう。

息抜きでストレス解消

諭吉は無類の酒好き。「勉強のかたわら飲むことを第一の楽しみにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればすぐに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方がうれしがって飲む。朝でも昼でも晩でも時をきらわず、よくも飲みました」と語っています。人に勧められてたばこも嗜みました。晩年は毎朝4~8キロの散歩、芝居見物や善光寺や伊勢神宮への旅行も楽しんだそうです。このように息抜きし、ストレスを解消していたのでしょう。

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福澤諭吉の気になる年収は…

年収

年収

年収

豊前中津藩(現在の大分県)の大坂屋敷で、下級藩士の次男として生まれた福澤諭吉。
当時、家の年収は13石(年間で約130万円)、5人兄弟であり、相当に貧しい暮らしだったようです。
それから一躍出世を遂げ、慶應義塾を設立し、明治日本のリーダーになったため、
慶應義塾の収入の何割かが諭吉の収入になったと思われがちです。
しかし、厳密にいえば諭吉は創立者であって、経営者ではありませんでした。

明治初期の慶應義塾はたびたび財政難に陥り、
そのたびに幹部やOBらが寄付を集める形で運営されていました。
よって、売り上げとして諭吉の懐を潤すような余裕はなかったようです。
1880年(明治13年)、塾は西南戦争の影響などで生徒数が激減し、ついに倒産しかかったほどです。

実は、諭吉の収入源は別経営していた慶應義塾出版局(のち時事新報社)がメインでした。
『学問のすゝめ』などの自著や塾関係者の著書を、出版・販売していたのです。
1882年から時事新報社を立ち上げ『時事新報』を発刊すると、これが売り上げ日本一を達成。
諭吉はその経営者として、自ら社員個々に給料袋を渡していたそうです。

上記は諭吉が『時事新報』の社主を務めた1885年~1894年のうち、
諭吉自身が得た最高額(1893年)の年収1万7000円を、現代の価値に換算しました。
当時、総理大臣の年俸が1万円ほどでしたから、その2倍近い額です。
ただ、これはあくまで最高額であり、大体7000円前後(約1億4000万円)で推移していたようです。

※※明治時代の1円=現在の2万円で換算。
過去の貨幣の価値を現在の貨幣の価値に換算することは困難です。
よって、この金額は各種の物価指数を利用して算出した、おおよその値です。

文・上永 哲矢(うえなが てつや) 
参考文献:『西洋事情』『福翁自伝』『慶應義塾百年史』『福澤諭吉全集「時事新報計算簿」』ほか

DODAキャリアアドバイザーからのコメント

もし福澤諭吉が現代のビジネスマンだったら

本の出版や大学の設立で有名な福澤諭吉ですが、彼を現代のビジネスマンと捉えたときにほかの人よりも秀でているのは「世界のトレンド・情勢の変化への敏感さ」と「自分の思い描く世界観を人に伝えるためのコミュニケーション能力の高さ」です。

まず「世界のトレンド・情勢の変化への敏感さ」ですが、当時日本初の運営スタイルだった『慶應義塾』の設立や、なじみがなかった英語の習得など、ほかの人が考えなかった斬新な施策を考えることができた人物でした。それは彼が海外に行った経験の中で学んだ、現地の文化や新しい価値観などを「良し」とし、それを受け入れられた人間だったからではないでしょうか。

そして2つめの「自分の思い描く世界観を人に伝えるためのコミュニケーション能力の高さ」ですが、諭吉は彼のビジョンに共感してくれる仲間を集めるのが得意な人物だったのでしょう。

「慶應義塾」の設立、「時事新報」の創刊もですが、新しいことに取り組むにはその世界観に共感し、一緒に協力してくれるサポーターが必要です。

そしてそのサポーターを得るには、しっかりとした信頼関係の構築が必要であり、彼の考えに共感してくれることが大前提でしょう。

その点、諭吉は無類の酒好きということもあり、酒の席を通して諭吉がビジョンを語る機会も多かったのではないでしょうか。また人付き合いも良く、現代でいえば「人たらし」のような部分もあったのかもしれません。そんな彼の人としての魅力や価値観に共感したサポーターが周りには多かったと思います。

そんな諭吉ですが、現代でいえば先端技術を持った大手のIT企業のCOO(最高執行責任者)で活躍できるのではないかと思います。

特にセールスの部門、つまり営業部長のようなポジションでその能力を発揮できるでしょう。

ITのような形のない商品やサービスを扱う無形商材のセールスは、売っているものが抽象的なため「自分たちがどのような価値を提供しているのか」を社員自身が認識することがモチベーションの維持にかかせません。その点、諭吉であれば自社のテクノロジーがもたらす価値を認識したうえで「自分たちがどのような価値を提供するべきか?」という確固たるビジョンを持ち、伝播できたでしょう。また、諭吉はさまざまなことに好奇心を持っていたので、テクノロジーについても積極的に勉強したと思います。

そして彼らしいビジョナリ―な発信がメンバーにも伝わり「ただのサービス提供ではなく、その先の未来を提供している」というビジョンの浸透や、メンバーのモチベーションアップによる企業の士気向上に、一役買ってくれるような人物だったのではないでしょうか。

江口 遼

パーソルキャリア株式会社
DODAキャリアアドバイザー

アドバイザー

IT業界向けの法人営業を担当した後、IT領域専任のDODAキャリアアドバイザーとしてITエンジニアの転職をサポート。その後、新規事業開発、マーケティング企画業務を経て現在は管理職やスペシャリストなどエグゼクティブ層の転職支援を行っている。GCDFキャリアカウンセラー、国家資格キャリアコンサルタントの資格保有。

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