最強の剣豪・兵法家と呼び声の高い宮本武蔵。「巌流島の戦い」などで名を馳せ、『五輪書(ごりんのしょ)』を残すなど、日本史上に燦然と輝く彼の年収、果たしていかほどだったのでしょうか?

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どんなことをした人だった?
改めて経歴から…

宮本武蔵プロフィール

履歴書

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宮本武蔵の功績やマネジメントスタイルは?

主な功績

  • 功績
    功績

    剣術家として名を馳せた武蔵は44歳のころ、播磨国(兵庫県)明石藩に仕える甥の伊織を養子に迎えます。武蔵には実子がいなかったためです。伊織はメキメキと出世して家老にまで昇進、知行4000石の身分となり、宮本家の子孫は長く家名を残しました。伊織自身に才覚があったことはもちろん、武蔵の養子になったことでハクがつき、出世につながったといえます。

  • 功績
    功績功績

    武蔵は武術の達人であり、また書画にも通じる文化人でした。その集大成が、最晩年の2年間で執筆した兵法書『五輪書』です。原本は残っていませんが、写本が細川家などに残され、現代に伝わりました。兵法の概念、敵と向かい合う時の心構え、刀の握り方など、武の境地に至った彼独特の哲学に満ち、処世訓や座右の書として世界中で愛読されています。現在、重要文化財となっている「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」、「鵜図(うず)」といった水墨画など、絵や工芸品を多数残しており、アーティストとしても非凡な才を持った人でした。

  • 功績
    功績

    武蔵は当初、「円明流」という兵法(剣術を中心をした武術)を使用していたそうです。その「円明流」をさらに発展させ、「二天一流」(または二刀一流)を編み出しました。いわゆる「二刀流」の利点や実際の使い方を、『五輪書』に書いています。ただ、必ずしも「二刀流」にこだわっていたわけではなく、「片手で打ち殺すのが難しい時は、両手を使ってもいい」「二刀の利点は大勢を相手にする時」などとも述べています。あらゆる事態に対処できるように説く、柔軟性の高い実戦的なものでした。

宮本武蔵のマネジメントスタイル

創意工夫を重ね、最強の座に上り詰めた

慢心せず、求道者であり続けた

生涯に60を超える勝負に臨み、無敗を誇った武蔵。五輪書の冒頭に、「我、三十を越えて跡を思ひみるに、兵法至極して勝つにはあらず」とあります。つまり、「私は30歳を越えたが、これまでを振り返ってみると、勝てたのは決して兵法を極めたからではない」という意味です。「ようやく兵法の道にかなうようになった」と思えるようになったのは、それから20年の鍛練を経てから、と続けています。

自己流の鍛錬、自由なスタンスを貫く

五輪書に「われに師匠なし」と書いているように、武蔵には師にあたる人物や、既存の流派の教えを受けたという記録が見当たりません。その剣術は自己鍛練と実戦から身についたもので、彼独自のやり方であったといって良いでしょう。正式に剣を学ばなかったのが良いのか悪いのか、そこは評価の分かれるところですが、既成概念にとらわれず「型にハマらなかった」という点は、武蔵の強みといえそうです。また名を上げた後も、武蔵本人はどの大名にも仕官せず、自由な生き方を貫きました。

巧みに相手の裏をかいた

あまりに有名な、佐々木小次郎との「巌流島の戦い」。この勝負で、武蔵は真剣を使わず、木刀で勝利しました。「岩流(小次郎)三尺余の白刃を手にして来たり(中略)真剣をもって雌雄を決せんことを請ふ。武蔵、木刀の一撃をもってこれを殺す」(息子の伊織が記した顕彰碑・小倉碑文から)とあり、真剣での勝負を望んでいた小次郎の意表を突いたといえます。この奇策が成功したのかもしれません。

※余談ですが、「巌流島の戦い」の記録は極めて少ないのです。例えば、武蔵が決闘の時刻に遅刻して小次郎をじらしたり、小次郎が刀を抜いて鞘を捨てた時に「小次郎敗れたり」と言って惑わせるという展開が有名ですが、これはほとんど小説などの創作です。同じく、「佐々木小次郎」や「巌流島」の名前も創作です。実際は「彦島」といいますが、後世に巌流島と呼ばれるようになりました。「巌流を使う兵法者が彦島で武蔵に敗れた」という事実が膨らみ、有名な決闘として語り継がれています。

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宮本武蔵の気になる年収は…

年収

年収

年収

武蔵は寛永17年(1640)、57歳の時に熊本城主・細川忠利に客分(軍事顧問)として招かれ、
まず当座の資金として18石(180万円)を支給されます。
その後、年末には1年分の給与として米300石(3000万円)の支給が決まり、熊本城下に屋敷が与えられました。
この300石は、武蔵が62歳で亡くなるまで毎年、支給されたそうです。
さらに、家老以上の身分でなければ許可されない鷹狩りも許されました。

天下一の兵法家であれば、もう少しもらってもいいのでは?…とも思えますが、
武蔵は細川家の家臣ではなく、客分の立場。
そう考えると、かなり厚遇されていたといえるでしょう。

※1石(こく)=大人1人が1年間に食べるであろう米の生産高。
ここでは1石を現代の金額に換算して約10万円と計算(相場は諸説あります)。

文・上永 哲矢(うえなが てつや) 
参考文献:『五輪書』『二天記』『小倉碑文』ほか

DODAキャリアアドバイザーからのコメント

もし宮本武蔵が現代のビジネスマンだったら

剣豪としても知識人としても優れた人材だった宮本武蔵。彼のような、どの環境においても成果を出せる人材の特徴として、まず組織における自分の役割を常に考え、即実行する目的達成思考であることが挙げられます。姫路の大名・本多忠政や明石の大名・小笠原忠真の城に招かれたとき、武蔵は剣や武術の指導、築城、町の設計などさまざまな業務に携わりました。客分としての自分は何を求められているのか、組織においての自分の役割を常に考え、実行する能力に長けていたのです。また、実子がいなくとも将来家名を残すために、三河の大名・水野勝成の子、三木之助や小笠原忠真に使える田原貞次を養子に迎えていずれも出世させ、武家としての宮本家を誕生させました。このエピソードからも、目的のためにどう行動すべきか判断する能力の高さがうかがえます。(※これらのエピソードは、「歴史を動かすビジネス作法05 宮本武蔵編」にも記載しています。)

第二に、目の前の物事に対する愚直なまでの努力が挙げられます。生涯に60を超える勝負に挑んで無敗を誇り、剣豪として最強の座に上り詰めた後もなお慢心せず、求道者であり続けました。晩年に執筆した『五輪書』で「ひたすら毎日、繰り返し修行に励むこと」「何事も修行で、その積み重ねが大事である」と書いていることからも分かるその勤勉な姿勢が、知識人としても芸術家としても成功を収める鍵になったのです。

そんな宮本武蔵を現代のビジネスマンに例えるならば、ある程度の規模まで事業成長しているが、今後さらに成長するには大きな変革が必要な停滞期を迎えた大企業で、事業責任者として活躍できるでしょう。組織において自分が何を求められているかを理解し、目的達成のための適切な判断ができる彼であれば、組織改革や事業モデルの再構築などで手腕を発揮できると思います。

中谷 正和

パーソルキャリア株式会社
DODAキャリアアドバイザー

アドバイザー

2007年に株式会社インテリジェンス(現・パーソルキャリア株式会社)に入社し、キャリアアドバイザー/法人営業の双方を担当後、現在はミドル~エグゼクティブクラスのさまざまな業界で活躍されている営業職の方々の転職支援を担当。業界や職種を変えての転職成功も多く実現。国家資格キャリアコンサルタント保有。

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