interview02 マイさん親子 APUは自分らしく生きる力が身につく大学 日越友好協会の役員で、ベトナムの古都フエで日本語教室を主宰する、母。母同様日本とベトナムの架け橋になれることを願う、娘。

APUを選んだ娘

ベトナムの古都フエにある、ホーチミンも通っていたという120年の歴史を誇る名門、クォック・ホック高校の出身。在学中に北海道の立命館慶祥高校との交流プログラムを通じて知り合った日本人の友達が、APUの存在を教えてくれた。母の影響で小さい頃から日本への留学を夢見るとともに、世界で活躍したいと考えていた活発な少女にとって、さまざまな国の学生と机を並べ、広く世界について学ぶことができるAPUは、まさに「理想の大学」だった。

APUに送り出した母

ベトナム戦争の最中に拡声器から流れてきた日本人の歌手、横井久美子さんの「戦車は動けない」を聴いて感動し、日本語を勉強するようになった。フエの大学に日本語のクラスができ、好きだった日本語を学ぶため試験を受けて見事合格。しかし、足の障がいを理由に入学を許されなかった。そのクラスを担当していた新江利彦氏(現静岡大学准教授)は、せっかく能力も意欲もあるのに学ぶ機会を与えられないことを惜しみ、毎朝授業が始まる前に自宅まで足を運んで日本語を教えてくれた。その後コツコツと自分で日本語を学び、友人たちに日本語を教えているうちに日本語教室を主宰するようになった。今では日越友好協会の役員を務め、APUにも多くの教え子を送り出している。

日本人だけではなくいろいろな国の学生と一緒に学ぶことができ
APUはまさに自分の「理想の大学」でした

娘/マイ・ホアイジャン:APUのことを知ったのは、フエにあるクォック・ホック高校に通っていた時のことです。ホーチミンも通った120年以上の歴史がある高校です。その学校が北海道にある立命館の系列高校、立命館慶祥高校との交流プログラムを実施し、慶祥高校のみなさんがベトナムに来てくれて、数日間交流しました。その時に知り合った友達が、私にAPUのことを教えてくれました。

もともと母が日本語を勉強していて、小さい頃から日本語を聞いて育ちましたから日本が大好きで、いつかは日本に留学したいと考えていました。その一方で、日本だけではなく、他の国でも活躍してみたいと思っていました。だから、APUは日本にある大学ですが、日本人だけではなくていろいろな国の学生と一緒に学ぶことができ、課外活動も活発に行われているのを知って、まさに自分の「理想の大学」だと思い、APUに入学できるように一生懸命努力しました。

高校生の頃は英語に力を入れて勉強していて、特別に英語を学ぶクラスにいたので、TOEICで975点くらいとっていました。だから、APUは日本語を入学後に学び、英語で授業を受けて卒業できることも私にとってはとても魅力的でした。

母/チャン・フォン・リエン:私はまだ13歳の少女だった頃、ベトナム戦争の最中に拡声器から流れてきた日本人の歌手、横井久美子さんの「戦車は動けない」を聴いて感動し、日本語がとても好きになりました。戦争が終わってハノイからフエに引っ越し、大学も出たのですが足に障がいがあったためにまともな仕事に就けませんでした。1985年に娘が生まれましたがシングルマザーで、私の父と母と一緒に暮らしながら娘を育てていたのですが、娘を養うためにセーターを編んだり、家の前で小物を販売したりして、なんとかしのいでいました。

そんな時にフエの大学に日本語教室が開講されたんです。もともと日本語が好きだったので試験を受けて合格はしたのですが、足の障がいのために通学できないと判断され、入学できませんでした。ところが、当時その日本語クラスを担当されていた新江利彦先生が合格者リストを見て、なぜこの人は合格しているのに学校に来ていないのかと教務に尋ね、わざわざ私の家まで会いに来てくださったんです。先生は、せっかく能力も意欲もあるのに学ぶ機会を与えられないことを惜しみ、毎朝授業が始まる前に私の家まで足を運び、1時間日本語を教えてくださいました。新江先生は自分の任期が終わって日本に戻られる際には、後任の平田好先生に引き継いでくださって、平田先生も毎日教えに来てくださいました。

その後コツコツと自分で日本語を学び、友人たちに日本語を教えているうちに噂を聞きつけた人たちが集まり、日本語教室を主宰するようになりました。新江先生たちのご恩に報いるためにも日本とベトナムの架け橋になりたいと思い、日越友好協会の役員になり、日本とベトナムの交流会を企画したり、日本にベトナムの子供たちを送る活動を続けています。

ですから、娘が日本に留学することには大賛成でした。特にAPUは文化的な面や、コミュニケーションの面で強い大学と聞いていたので、娘が入学できたこと、育てていただき卒業したあとも日本で活躍していることを、とても嬉しく思っています。

APUは日本の大学というよりもグローバルな大学ですよ、
という話を自分の生徒たちにしています

娘/マイ・ホアイジャン:APUに入学することになって、初めて別府に来ました。以前訪れたことのある東京などのイメージが頭にあったので事前に想像していたのと随分違っていて、「ああ、ここも日本なんだ」というのが第一印象でした。すぐに学生寮のAPハウスに入ったのですが、最初に待っていてくれたのが日本人の RA(Resident Assistant)の木村友香さんでした。彼女が受付をしてくれて、学校を案内して、いろいろなことを教えてくれました。友香ちゃんとは今でも親友です。初めての留学生活で、最初は別府に慣れなくて寂しい思いをしたのですが、友香ちゃんがとても良くしてくれて、彼女がいたから最初のギャップを乗り越えられたと感謝しています。

APハウスの生活はすごく楽しかったです。APハウスの同じフロアのキッチンで、インド人やネパール人、中国人の友達と一緒に料理を作って食べたり、新年を迎えるカウントダウンパーティーで一緒に歌ったり踊ったり。世界がみんなこんな感じだったら戦争は起きないなと思いました。

APハウスでのカウントダウンパーティー。

APハウスでのカウントダウンパーティー。

でも、揉めることもいっぱいあります。料理を作った後、散らかしたままで片付けないとか、汚いとか。そうするとRAが出て行って話し合って、お互いに少しずつ調整するんです。私たちも互いに全然知らない国から別府に来て、自分が悪いと思っていなくても実は相手に迷惑がかかっているとか、逆に自分が不快に思っていることを相手は全く意識していないことなどがあります。だから、コミュニケーションが大事なんだということが、身にしみてわかるようになります。日々の生活の中での小さなことばかりですが、互いに話し合うことでどんどん解決していきます。

授業でもそうです。いろいろな国の人が集まって一緒にワークショップをやるので、そこでも意見のぶつかり合いがあります。課外活動でも同じです。例えば秋にミッドオータム・フェスティバルというお祭りをやるのですが、韓国人と中国人がお互いにそれは自分たちの祭りだと言って譲りません。このように、いろいろな場面ですごく喧嘩をします。喧嘩をするけれども、終わったらまた一緒にスーパーに買い物に行ったりします。

そこで学んだのは、世界には自分と違う意見を持つ人がたくさんいる、ということです。もう1つの学びは、絶対的な正解というものが無いということです。だから、正解がないところで自分が言いたいことを言い、相手のことも尊敬して意見を聞いて理解し、どうやったら調和できるかを考えるようになります。

母/チャン・フォン・リエン:娘はベトナムにいた頃はまだ本当に小さな子供という感じでした。活発にいろいろなことに挑戦する子供ではありましたが、一方で精神的には親に頼りがちのところがありました。APUに留学したことで、自分のことは自分で決められるようになりましたし、自分で判断して自分の道を歩いていっているようです。強くなりました。すごく成長したと思います。

APUはグローバルな視点で教育してくれるところなので、マイがグローバルに活躍できる人材に育ってくれたことをとても誇りに思っています。ですから、今私が日本語を教えている生徒たちにもAPUは日本の大学というよりもグローバルな大学ですよという話をし、グローバルに活躍できる人材になるためにAPUを目指してほしいとはっぱをかけています。

卒業式にて。

卒業式にて。

変化が激しくてもそれに適応できる力、自分の夢を実現する力を
APUで過ごした学生時代に得ることができました

娘/マイ・ホアイジャン:APUを卒業したあとは、最初に大手アパレル会社に就職しました。仕事が始まって間もなく、結婚して子供ができました。キャリアだけではなく、女性としての人生も築いていきたかったからです。ライフ変化と合わせて、この会社で5年ほど勤めて転職しました。

その後、より自分が活躍できる場が欲しいと思って、ニッチの分析機器メーカーに再就職しました。この企業は日本国内では90%くらいのシェアを持っていて、154カ国くらいに輸出して海外拠点もあるところです。ここで海外市場のいくつかを丸ごと任せていただきました。どんな代理店を採用するか、お客様とどう関わっていくか、マーケティング戦略からアフターフォローまで全部自分が担当していたので、すごくやりがいがありました。この会社には4年くらい勤めて、売り上げも実績もたくさん残したのですが、自分の中でずっとベトナムと日本の架け橋になるようなことをやってみたいという夢があったので、2016年11月に思い切って退職しました。

APUは生きる力を養ってくれるところだったなと、私は感じます。普通の学校のようにただ座って何かを教えてもらったのではなく、自分の人生を自分らしく生きる力を養ってくれていたんだと。自分が慣れない環境で生活するとか、クラスで自分と意見が違う人とぶつかった時にどう反応し、どう対応し、どう解決していくとか、教えられて覚えるのではなく、自分で考え、考えたことを実行する力を、毎日の生活の全ての場面を通してトレーニングされていたのだと思います。

それは、これからの世界を生き抜いていくために、必要なスキルばかりだと私は思うんです。世界がどんどん変わっていく中で、どうやって自分の夢を実現するのか、どうやって自分のやりたいことを通すのか、どうやって自分にとって大事な価値を失わないように生きていくのか。時代が変わっても、変化が激しくても、それに適応できる力、自分の夢を実現する力、そういうものをAPUで過ごした学生時代に得ることができたと思います。

上海出身の夫もAPU大学院卒業生。

上海出身の夫もAPU大学院卒業生。

私たちはみんな違うから、それぞれの成功や幸せの形は違います。では、どうすれば自分らしく生きていけるのか、どうすれば自分らしい成功の形を描けるのか。その答えを自分で見つける力をAPUは養ってくれるところです。私はAPUに入学することができて、本当に幸せだったと思います。

日本のすごいところは、伝統がきちんと守られていることです。国際的なのですが、日本らしい文化はきちんと守り、失わないようにしている。ベトナムは戦争で多くのものが破壊され、今は急速に経済が成長しているために、守りたくても守れなかったものがあります。

昨年、私が日本で起業したシクロリムジンのサービスは、ベトナムの伝統文化の1つです。シクロはもともと高級な乗り物としてフランスからベトナムに導入されたものです。時代とともに市場に通う人々の足になり、荷物を運ぶようになったりして、高級感は無くなりましたが、庶民の足として大活躍していました。その後、オートバイや車が普及し、だんだんと使われなくなりました。今ではフエ、ホイアン、ハノイなどごく一部で観光用に使われているだけです。だから、日本にシクロを持ってきて、新しい価値を与え、新しい生き方を見つけてあげたいと思ったんです。

丸の内で運行するシクロリムジン。

丸の内で運行するシクロリムジン。

母/チャン・フォン・リエン:私が教えている日本語教室の生徒の中にも日本に留学したいという人がたくさんいます。今、若い人たちがたくさん日本に学びに行っていますし、ベトナムは今観光に力を入れているので、日本からベトナムを訪れる人も年々増えています。こうして両国の繋がりがますます強くなることは、喜ばしいことです。

でも、最近日本でトラブルを起こすベトナムの留学生が出てきているという報道を聞いて、心を痛めています。ですから、私は生徒たちには単に日本語を教えるだけではなくて、日本の文化であったり、法律であったり、日本で堂々と生活するために必要な知識やマナーも同時に教えるようにしています。今まで私の生徒の中でトラブルを起こした人は1人もいませんが、今後はますますそういう面を重視していきたいと考えています。

フエ出身でAPUに入学した人のおそらくほとんどは、私の教室で学んだことがある人です。APUを卒業すると就職の面でも安心なので、志望する人はたくさんいます。でも、やはり量を目指すのではなく、本当に目標を持ち、しっかり学ぶ意欲のある人だけを送り出すようにしたいですね。

娘は昨年自分の夢を実現したいと言って勤めていた会社を辞めて、ベトナムのシクロを日本に紹介するために起業しました。日本でまだ誰もやったことがない、前例がないことに挑戦し、まだ先行きどうなるかもわかりません。正直なところ、親としては本当に心配です。でも、APUで培った力でなんとか乗り切ってくれると信じています。

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株式会社コンシリウム 代表取締役。東京藝術大学美術学部大学院修了 西洋美術史専攻。日経アート編集長、日経デザイン編集長などを歴任。

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株式会社コンシリウム 代表取締役。東京藝術大学美術学部大学院修了 西洋美術史専攻。日経アート編集長、日経デザイン編集長などを歴任。