APUを選んだ娘

高校時代に友人に誘われたのがきっかけでAPUを知り、受験。飛び級で高校の過程を修了し16歳で入学したAPUは、最初はたった1人でも何か行動を起こせば社会を変えることができる、と教えてくれた場所だった。オーストラリアの大学院を卒業後、ボランティア活動のため訪れた中米ニカラグアで、聴覚障がい者が働くカフェに出会って感銘を受け、インドネシアに展開することを決意。シンガポールのクレディ・スイス銀行で働いて得た給料を注ぎ込んで、2015年にジャカルタ郊外にろう者の自立を支援する組織、Deaf Cafe Fingertalkを設立した。

APUに送り出した母

インドネシア政府で会計士として働いた後、貧困が原因で教育を受けられない子供たちのためのフリースクールを2006年に開校。娘が奨学金を得てAPUに入学できたことを誇らしく思う一方で、自宅周辺には家庭の事情で学校に通えない子供たちがたくさんいることに心を痛めたのがきっかけだった。自宅の居間を教室にし、8人の生徒からスタートした学校は、今では生徒数500人を数え、幼稚園、小学校、中学校、コーランを教えるクラスを併設するまでになった。

娘が奨学金をいただいてAPUに入学できることが決まった時には
とても誇らしく嬉しかったです

娘/ディサ・シャキナ・アダニサ:APUを知ったきっかけは、通っていた高校にポスターが貼ってあり、大学案内の冊子が置いてあったからです。友人の1人が日本のことが大好きで、高校の進路カウンセリングルームでそのポスターを見て、「日本に行きたいから一緒に願書を出して!」と頼まれたんです。私は一生懸命エッセイを書き上げて願書を提出したのですが、その友人は結局半分しか書けなくて、出願できませんでした。私は幸運だったと思います。彼女がいなければ進路カウンセリングルームに行くこともなかったし、APUのことも知らないままだったでしょう。

飛び級して2年で高校を卒業し、APUに入学したのは2006年、16歳の時です。私にとって初めての海外でした。最初の1年間は学生寮のAPハウスに入りました。APハウスでの生活はとても楽しかったです。いろいろな国から留学生が集まっていて、タイ人、中国人、ベトナム人の学生たちとすぐに打ち解けて仲良くなりました。APハウスではいろいろな国の子たちが集まってイベントをやったり、パーティーをやったりするので、日本にいながらいろいろな国の文化を身近に経験することができます。

インドネシアには「ビーフレンダン」という、牛肉をココナッツミルクのソースで煮たすごく美味しい料理があります。時々母がジャカルタからこの料理を送ってくれたのですが、APハウスのキッチンにある電子レンジで温めるとココナッツミルクの美味しい香りが広がって、フロア中の学生が集まってくるんです。そういうところがAPハウスのいいところです。

母/リスマ・ガウス:もともと娘はドラえもんが大好きだったのと、私がジャカルタの日本語教室に通っていたことがあって日本の方に親切にしていただいていたので、日本にはいつか行ってみたいと考えていたようです。

娘が奨学金をいただいてAPUに入学できることが決まった時には、とても誇らしく嬉しかったですね。夫はまだ16歳の娘を異国に1人で送り出すことをとても心配していましたが、私には全く不安はありませんでした。日本はとても安全なところだと知っていましたし、娘はベストを尽くしてくれるだろうと、信頼していましたから。とにかく一生懸命勉強して、世の中に役立つ人になるように、と言って送り出しました。

1回生の時はAPハウスに入って、ゴミの分別の仕方など、最初は分からないことがいっぱいあって、少し戸惑ったようです。入学して半年くらいたった頃に、ホームシックにもなりました。困った時には私に連絡してきたので、いろいろな言葉を返してあげました。その頃の様子が分かる、娘が入学してから最初の100通のSNSの娘とのメッセージのやり取りを、1冊の本にまとめました。

APUは何か行動を起こせば
社会を変えることができるということを教えてくれる場所です

娘/ディサ・シャキナ・アダニサ:私は今、インドネシアでDeaf Cafe Fingertalkという聴覚障がい者の社会進出や自立を支援する組織を運営しています。Deaf Cafe Fingertalkは、カフェ、洗車場、ワークショップなども行う工房の3つの事業を行っています。

私はもともと在学していた時から、別府市の特別支援学校で英語を教えるボランティア活動に携わり、2010年に卒業し、オーストラリアのニューサウスウェールズ大学の修士課程に留学した時も、インドのカースト制度の最下層であるダリットとよばれる階層の子供たちに教育の機会を提供し、仕事に就くための訓練を行っている組織で働かせてもらうなど、積極的にボランティアをやっていました。

2013年に中米ニカラグアのグラナダにボランティアに行った時に、聴覚障がい者が店員として働くカフェ、「カフェ・デ・ラス・ソンリサス(微笑みのカフェ)」に出会いました。オーナーは健聴者なのですが、そこで働いている人たちはみんなろうの方々です。このカフェに出会ったことで、私は健聴者と聴覚障がい者が一緒に働くことができるという事実を知って衝撃を受け、インドネシアで同様の事業を展開しようと決意しました。

インドネシアに帰国後、早速インドネシアの聴覚障がいの方々が置かれている状況を調べてみました。2015年の統計データによると、インドネシアの人口の約11%が障がい者です。これは約2750万人という数になります。このうち約3分の1が聴覚障がい者です。でも、このデータは現実よりも低い数字です。なぜなら、インドネシアでは障がいを持った人たちを家族が隠していることが多いからです。

実際に私の隣人にも障がいを持った子がいて、両親はその子を決して家から出そうとせず、その子のことを口に出すこともしません。その子は聴覚障がい者であることが分かったので、Deaf Cafe fingartalkを開業する時に両親に私たちと一緒に働くことを許してほしいと頼みに行きました。しかし、首を縦に振ってくれませんでした。

インドネシアでは、企業は障がい者を雇うと余分なコストがかかると考えて、そもそも雇用することを嫌がることが多いですし、雇用している場合にも業績が悪くなると最初に解雇されるのは障がい者です。私はこういう状況を変えたいと思い、Deaf Cafe Fingertalkを立ち上げることにしました。

APUはたとえ1人でも何か行動を起こせば、社会を変えることができる、社会に貢献できる、ということを教えてくれます。1回生の時からそのことをいろいろな機会に実感できる場所です。例えば、APUにはインドネシア出身の先輩達によって創設された「hosiZora(ホシゾラ)」というサークルがあります。ホシゾラはインドネシアのジョグジャカルタで学校に通えない子供たちを支援する活動をしていて、インドネシアでhosiZora FoundationというNGOになっています。私はこの活動を知ってボランティアに関心を持つようになり、ソーシャルワークに関心を持つようになりました。そして、実際にそこから生まれる影響も目の当たりにして、行動を起こすことの大切さを学びました。

1970年代から聴覚障がい者の自立を支援し、インドネシアで数多くの手話通訳者を育ててきたパット先生から手話を教わった。

1970年代から聴覚障がい者の自立を支援し、インドネシアで数多くの手話通訳者を育ててきたパット先生から手話を教わった。

母/リスマ・ガウス:娘はAPUに入って大きく変わりました。娘には世界中に友達ができ、とても大きなネットワークを作ることができました。彼女が築いたネットワークは、将来もっと大きな仕事をしようと思った時に、計り知れないほど彼女の役にたつでしょう。APUに入ってこのネットワークを築いたことは、彼女の人生にとって大きな意味がありました。

実際、私も娘のネットワークに随分助けてもらっています。私の娘は幸いなことに日本に留学することができました。でも、私の自宅の周辺には学校に通えない子供たちがたくさんいました。この子たちに何とか教育を受けさせてあげたいと考えて、私はフリースクールを立ち上げました。

最初は自宅の居間を使って8人の子供たちを教えるところから始めました。今では学んでいる子供たちは500人に増え、幼稚園、小学校、中学校とコーランを教えるクラスがあり、校舎も立てました。

ディサのAPUの友人たちは、シンガポールや日本から毎週月曜日に私の学校のために寄付を送ってくれていますし、何か困ったことがあったらいつでも相談して欲しいと言ってくれます。昨年、私とディサはAPUの卒業生たちに私の学校の基金についてプレゼンテーションを行う機会も設けてもらいました。

彼がもしAPUに来ていなかったら
今の地位には就けなかったでしょう

娘/ディサ・シャキナ・アダニサ:今、私がお話をしているジャカルタ郊外の南タンゲランにあるDeaf Cafe Fingertalkは、私の手話の先生のパットさんが無償で提供してくださった場所を使っています。ここにはイベントスペースとワークショップなどを行う工房があり、このほかにチネレという場所で洗車場とカフェを運営しています。先生はご自身が聴覚に障がいを持っていらっしゃるのですが、1970年代から聴覚障がい者の自立のために裁縫などを教えてこられた方です。

Deaf Cafe Fingertalkは2015年の5月にスタートしました。その頃はシンガポールのクレディ・スイス銀行に勤めていて、そこで1年間貯めた給料をインドネシアに持って帰り、母にも協力を仰いでカフェを始めました。オープン後の1年間はシンガポールとインドネシアを月に1回往復する生活で、銀行に勤めながらカフェを運営し、2016年の9月に退職してインドネシアに戻ってきました。

Deaf Cafe Fingertalkを立ち上げようと考え始めた頃、私はインドネシアの聴覚障がい者のコミュニティーに誰も知り合いがいませんでした。ちょうどその頃にAPUの後輩の1人がインドネシアの新聞「ジャカルタポスト」に聴覚障がい者のコミュニティーについての記事を書いていることを知り、すぐにコンタクトをとりました。

彼女は手話通訳者を紹介してくれたのですが、その方がパット先生の教え子の1人でした。そのおかげで私はここにカフェと工房を開くことができたのです。最初は聴覚障がいのスタッフ4人でスタートしました。1年後にはチネレに洗車場とカフェを開設し、従業員は20人に増えました。

私たちの目標は、より多くの仕事を生み出し、手話の知識をインドネシアに広め、健聴者のコミュニティーと聴覚障がい者のコミュニティーを繋いでいくことです。

私の将来の夢は、このインドネシアで社会福祉担当の大臣になることです。社会福祉に関する政策を作り、実行する人間になりたいんです。このような夢を持つようになったのは、APUの先輩に触発されたからです。

その先輩は26歳の時にAPUで最年少で博士号を取った人で、インドネシアに戻って今は東ジャワ州の副知事として活躍しています。彼が博士号をもっていることは、今の地位につくために必要なことだったのだと思います。だから、より高いレベルの教育を受けることで、政策をつくったり、今よりもっと大きな変革を起こせると思います。

だから、今年の9月からAPUの博士課程に入学する予定です。インドネシアと日本の福祉政策を比較研究し、博士号を取りたいと考えています。

母/リスマ・ガウス:娘が今やっているのは、とても素晴らしい仕事だと思います。ですが、同時にとても大変な仕事です。娘は毎日提案書を書いて、いろいろな人にメールを送り、投資家や各国の大使館や、とにかくいろいろな方面に連絡を取っています。そして、興味を持っていただいた方々にプレゼンテーションを行い、Deaf Cafe Fingertalkへの理解と支援を得ようとしています。とにかくストレスが多いので、娘にはいつも健康に気をつけるように言っています。

ディサはまたAPUに戻って社会福祉関係をテーマにして論文を書いて博士号を取りたいと言っています。無事に博士号を取ることができれば、将来はより大きな仕事ができるようになると思います。

Deaf Cafe Fingertalkは今、ここで作った工芸品などを販売するネットショップを始める準備をしています。マネジャーのアリさんを始めスタッフが育ってきているので、娘が別府に行っても大丈夫でしょう。

Deaf Cafe Fingertalkで働く聴覚障がい者の従業員と。

Deaf Cafe Fingertalkで働く聴覚障がい者の従業員と。

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株式会社コンシリウム 代表取締役。東京藝術大学美術学部大学院修了 西洋美術史専攻。日経アート編集長、日経デザイン編集長などを歴任。

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株式会社コンシリウム 代表取締役。東京藝術大学美術学部大学院修了 西洋美術史専攻。日経アート編集長、日経デザイン編集長などを歴任。