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第1話 江戸の繁栄を支えた 天空の鉱山都市

世界一の産銅国・ニッポン

江戸時代の初め、日本は世界有数の銅の輸出国だった。

長く低迷していた日本の鉱山業を再興したのは戦国武将たちだ。
軍資金を得るために金や銀、銅の採掘に力を入れ、鉱山の開発を奨励した。
1610 年(慶長15 年)には足尾鉱山(栃木県)が開坑。

その後、尾去沢(秋田県)、永松(山形県)、吉岡(岡山県)などが栄えた。
1660年頃から銅の大増産が始まり、銅の輸出も大きく増える。
1697年(元禄10年)に、日本の銅生産量は年間約6000トンに達し、当時、世界一の産銅量を誇った。

『鼓銅図録』(所蔵:住友史料館)

江戸の初期、世界一の産銅大国・ニッポンを支えたのが、
銅吹屋と呼ばれる精錬に携わる職人たちである。

大坂は銅精錬の一大中心地で、17世紀末には1万人もの銅吹に携わる人々がいたとされる。
その中心にいたのが、粗銅から銀を分離する南蛮吹(なんばんぶき)の技術を開発した住友家である。

住友は、高度な技術で大坂の地に精錬産業の礎を築き、やがて銅山経営にも乗り出す。
吉岡(岡山県)や幸生(山形県)など、江戸時代に住友が経営した鉱山は50を超える。

日本地図 陸奥 出羽 越後 下野 伊豆 美濃 越前 若狭 摂津 但馬 播磨 美作 備前 備中 備後 石見 周防 長門 伊予 土佐 日向

江戸時代に住友が経営した鉱山(出典:『住友の歴史 上巻』、思文閣出版)

「もっと銅が採れる山はないか」。
住友の大きな転機は、伊予(愛媛県)の立川銅山(たつかわどうざん、現在の別子銅山の北側半分)で
働く労働者(稼人、かせぎにん)からの知らせによってもたらされた。
立川銅山の裏手に有力な銅の鉱脈がありそうだという。

調査の結果、その予測は裏付けられ、翌年の1691年(元禄4年)には、別子銅山が開坑する。
産銅高はわずか数年で1500トンに達し、最盛期には日本の産銅高の4分の1を産出するまでになる。

標高1200メートルを超える山深い寒村に突如出現した天空の鉱山都市、ここはその後何世紀にもわたり日本の鉱業の中心地となり、繁栄と挫折を繰り返しながら、悲喜交々さまざまな物語の舞台となっていくのである。

山中に暮らす人々の暮らしぶり

別子銅山が開坑するまでの別子山村は、石高わずか34石、人口は500人に満たない貧しい村だった。
ところが銅山開発が始まると、銅を採掘する掘子、運搬する仲持、製錬を行う炭焼など、
多くの労働者(稼人)がこの土地に住むようになる。

稼人は中国地方や四国地方、九州地方はもちろん、遠く東北地方からもやってきた。
その数は最盛期には3000~4000人に上ったという。

江戸から明治にかけて、別子銅山の様子はさまざまな絵師によって描かれてきた。
浜から山麓に向かって延びる険しい運搬道、深い雪に覆われるつづら折りの道に立つ支柱など、
そこには険しい山岳地帯を開発し都市を作り上げた人々への称賛と感嘆の思いが込められている。

なかでも、図録「銅山略式志」全7図は、江戸時代の別子銅山の暮らしぶりを生き生きと描きだした秀作である。
山上の人々が、厳しい自然環境と過酷な労働に追われる日々の中で、
祭礼や年中行事を営みながら心豊かに暮らしている様子を垣間見ることができる。
ここでは、代表的な二つの絵図を見ていく。

『銅山略式志』(所蔵:田邊一郎)

漢学者の近藤篤山(1766~1846)は、別子山を「神の棲む山」と詠んだ。
伊予小松藩(愛媛県)の藩校の教授を務めるなど40年以上も地元の教育に尽力した篤山は、
10代の青春期を別子山で過ごした。

23歳で大坂の塾に入り、さらに幕府の学問所である江戸の昌平黌で学問に励む。
しかし32歳の時、立身出世競争に明け暮れる世界に見切りを付け、別子山に帰郷した。

1797年(寛政9年)正月13日、篤山は江戸を発ち、2月19日夕刻にようやく懐かしの故郷、別子山のわが家に着く。
その翌朝、久々に実家で迎える朝の心境をこう詠んだ。

 雨歇(や)んで、南峯は暁氛(ぎょうふん)を開き、(雨がやんで、南の峯は曙のようだ) 啼鶯は客を迎え、共に欣々(うぐいすが鳴いて、私の帰りを共に喜んでいる) 故渓の緑水は皆な新たに漲り(故郷の谷の木々の緑や谷水は、すべて新しい季節に満ちあふれている)  熟路の青苔は、復た旧紋(通いなれた道の青苔は、昔ながらの趣をしている) 帰意に且つ思うのは、彭沢令(帰省にさいしてふと思うのは、陶淵明のこと) 昨遊は、北山の文に何ぞ恥じん、(きのうまでのことは、北山の故事(名誉や利欲を求めず〉にならい、何ら恥じることなどない) 他郷の三歳三千里(他郷にあること、三年と三千里のかなた) 期し得たり、窓前の数片の雲(ようやく、窓前の数片の雲と暮らせる清貧の日がやってきた)

自らの心境を、さながら魏晋南北朝時代の隠逸詩人、
陶淵明が郷里の盧山(南山)に帰郷したときの心境になぞらえて詠んだ詩である。

篤山はまた、陶淵明の「桃花源の記」を踏まえて、別子山を「人境の仙界に似たる有り」と詠んでいる。
製錬による亜硫酸ガスや煤煙で、別子山の草木はなくなり荒れた山肌になっているが、
それでも見ようによっては立派な仙界の地だというのである。

厳しい環境の中でも人間の善を信じて生きていくことの大切さ――篤山の人間観や自然観は、
青春期に住んだ別子山の暮らしの中で育まれたのである。

資源の枯渇と火と水とのたたかい

鉱山業は、自然との闘いといわれる。別子銅山も例外ではなかった。
運よく豊かな鉱脈に恵まれ、開坑から数年で日本有数の産銅高を誇るまでになったが、
やがて生産量は減少していった。

江戸末期になると別子銅山は、遠町深鋪(えんちょうふかじき)と呼び習わす鉱山の老化現象にいよいよ悩まされる。
老いた鉱山は鉱脈が細り、採掘現場が地表面から遠く離れて地中深くなる。

そこから際限なく湧出する水は人力で汲み上げるしかなく、
水引と呼ばれる人々が昼夜問わず汲み上げ作業を行った。

19世紀のはじめには290メートルの高低差を、
160挺の箱樋(はこひ)と呼ばれる排水設備(木製ポンプ)
を使って人力で水を汲み上げていた。

一方、製錬の燃料となる木炭の調達も困難を極めた。
周辺の山々の木々を伐り尽くし、
遠くの山に設けられた炭宿から、山を越え、谷を渡って、

中持と呼ばれる女性たちが木炭を運び入れた。
こうして森林の荒廃はさらに遠くへと広がっていく。

それだけではない。
坑口を中心に狭い土地に営々と築き上げられた鉱山都市は、
時として火災や大雨による鉄砲水、土石流によって被害を受けた。火と水と土石とのたたかいである。

別子銅山が江戸幕府の勘定所に提出した被害届を見ると、
1694年から1867年の幕末までの174年間に141件の災害に見舞われた。

とくに1694年に発生した元禄大火災では開坑まもない町がほとんど焼き尽くされ、多くの人命が失われた。
1743年と翌年は山肌が崩落する風水害に見舞われ、銅山滅亡といわれるほどの損害を被った。

別子銅山には、正月の年頭礼にはじまり、稲荷宮の祭礼や若宮祭礼、祇園祭、盆行事、ふいご祭りなど、
驚くほど多くの年中行事や祈りの場面がある。

山上の人々は、銅山の繁栄と操業の安全を神意に委ねながら、
苦難に満ちた日々を生き抜いていたのである。