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上咽頭がんを4カ月間治療後、プロジェクト統括職に復帰

小倉新司さん、60代、男性
職業:会社員(新規戦略事業開発→シンクタンク研究員)→放送大学やその他の講師
勤務先:日本電気株式会社(従業員数 単独21,444名(2017年3月末現在))(罹患時)→株式会社国際社会経済研究所(NECより出向)→放送大学やその他の講師など幅広く活動中
健康保険:日本電気健康保険組合

2011年6月に内耳に水がたまり耳鼻咽喉科を受診。症状が繰り返したため精密検査を受け、9月に上咽頭がんと診断される。12月末に入院して、2012年1月より抗がん剤3種類の同時投与と放射線治療を開始。放射線治療は約1.5カ月で許容最大限を照射して終了。抗がん剤治療は約3カ月実施。食欲不振のため100kg以上あった体重が38kg減少して、歩行困難になる。そのため抗がん剤の量と種類を減らしながら1カ月入院を延長し、リハビリを行う。10mほど歩ける状態になって4月末に退院し、連休中に自主的にリハビリを継続。連休明けに出退勤時間を1時間早くするシフト勤務でラッシュアワーを避けつつ出社。2012年9月より通常勤務時間に復帰。退院後に再発はないまま5年経過し、現在は年に1度の定期検診のみ。

・自分しかできない仕事をかかえていたため、入院中にPCを持ちこんだり、病院近くに住む部下に毎週来てもらったりした。

・病状を知られるとプロジェクトがキャンセルされると判断し、社内の一部の人以外には詳しい病状を伏せた。

・医療費の支払いが高額になったため、民間医療保険等を活用してキャッシュフローの計画を立て対応した。

上司から、「待っているから早く復帰してくれ!」と応援された

 2011年当時、小倉さんはNECの副社長直属で、新規戦略事業開発を統括していた。新規事業の立ち上げには、個人の情熱と信頼がものをいう。小倉さん自身が社内外のさまざまな人に会ってプレゼンテーションを行い、交渉し、契約を取り付けて、ひとつの事業として形にしていく。海外出張も多く、複数本のプロジェクトのキーマンとして活躍していた。

 2011年6月に耳に違和感があり、耳鼻咽喉科を受診。耳に水がたまっていた水を抜いてもらうと違和感はおさまった。ところが、3週間くらいでまた水がたまったため、内視鏡検査を受けると、鼻の奥の方(上咽頭)に大きな腫瘍が見つかった。腫瘍が耳管をふさいで喉に液体が降りなくなったため、耳に水がたまっていたようだ。

咽頭・上咽頭の構造(がん情報サービスからの引用)

 組織検査で、上咽頭がん(ステージIV)という診断を受けた。幸い遠隔転移は見つからなかったが、上咽頭は頭部の中央部にある。ピンポン球くらいのがんを脳、神経、血管などが取り囲んでいて、手術は非常に難しい。アメリカでは、顔の皮膚をすべてはぎとり顎の下から手術をした例があるが、実施例が極端に少ないうえに、手術後は人相が変わってしまうという。「小倉さんが小倉さんではなくなりますよ」と言われて、それは困ると思って手術はあきらめた。

 手術ができないと、あとは放射線と抗がん剤治療しかない。診断を受けた大学病院は放射線治療の機械がメンテナンス中ということもあり、担当医の師にあたる医師がいる大病院を紹介された。紹介された医師は、病状を詳しく説明し、「難しい症例ですが、私には治す自信があります」と言ってくれた。あとでわかったが、主治医は日本では珍しい上咽頭がんの権威だった。

 詳細な検査の結果、小倉さんは、肝臓、心臓、腎臓などの臓器が非常に強く、血液の状態も良好だとわかった。食べることが大好きで当時は体重が100kgあったが、「これだけ脂肪があれば、食事をしばらく摂れなくなっても持ちこたえられますよ」と主治医に言ってもらった。

副作用でだ液が出なくなり、滑舌の悪さに困る

 がんを一気に攻撃するために、放射線治療と3種類の抗がん剤治療を同時に開始することになった。治療予定は3カ月と言われた。

 放射線治療では、小倉さんの頭部の構造を詳しく調べて、できるだけ重要な器官に影響がないように、さまざまな方向からすきまを縫って、がんにピンポイントで放射線があたるように照射した。1カ月程度をかけて、許容限度ぎりぎりまで放射線をあてた。

 できるだけ影響がない場所を選んだが、どうしてもだ液腺に放射線があたるため、だ液の量が少なくなるだろうと治療前に説明を受けた。

 実際、治療後にだ液がでなくなり、大変苦しい思いをした。朝起きると、舌がひからびたタラコのようになり、感覚がなくなっている。話をするとすぐに口が渇き、ものを食べようとしても口にへばりついて飲み込めない。だ液がこんなに大きな役割を果たしていたことにはじめて気が付いた。

 退院して社会生活をはじめると、だ液が出ないことで困ることが多くなった。小倉さんの仕事は、プレゼンテーションや交渉で人と話すことが多い。口の中が乾くと滑舌が悪くなり、相手に何度も「え?」と聞き返された。周囲には迷惑だったと思うが、それがよいリハビリになったのかもしれない。だ液は徐々に出るようになり、何年もかけて滑舌は少しずつ改善していき、5年後のいまは、ほとんど問題なく聞き取ってもらえている。

 抗がん剤の副作用として、通常は吐き気がでるが、小倉さんは吐き気やむかつきをまったく感じなかった。一度だけ、吐いてしまっただけだった。

主治医に性格を見透かされ、自分にあった対応をしてもらう

 吐き気はないが、食欲がまったくなくなった。嚥下機能の衰えなどはなく、普通食が三食出てくるが、箸を付ける気にならない。むかつきや満腹感があるわけではなく、食べ物に興味がなくなったという感じだ。看護師には無理にでも食べるようにと言われたが、主治医は食べたくないなら食べなくてもよいと言ってくれた。ほとんど食事に手を付けなかったため、100kgあった体重が入院中に38kgも減少した。そのためか筋力が衰えて、自力でほとんど立っていられなくなった。

 治療の成果でがんはみるみる縮小し、予定通りに3カ月で治療はほぼ終了した。しかし、主治医は「入院をもう1カ月延ばしていいですか」と言う。「自宅療養にすると、小倉さんは絶対に仕事をやりすぎます。少なくとも、自力で立って歩けるくらいになるまでは病院でリハビリしましょう」と提案するのだ。小倉さんは、主治医に性格を見透かされているなと思った。主治医は、常に状況を説明して、小倉さんの判断を尊重してくれていた。3カ月の入院で仕事には穴が開き切羽詰まった状態だったが、やむを得ず1カ月の入院延長を了承した。

 有給休暇等はほとんど使わずたまっていたので、3カ月間はそれでまかなえた。4カ月になるとさすがに欠勤になるが、人事担当者にメールで相談すると、「心配せずに完治してください」と返事が来たので、ほっとした。結果的に、欠勤になっても降格もなく、退院後に元の部署の元の地位に戻ることができた。

 抗がん剤治療は、薬の種類や量を減らして退院間際まで続けたが、入院4カ月目は主にリハビリに費やした。主治医は「小倉さんは人に言われてコツコツやるタイプではないでしょう」と言って、決まったリハビリメニューをこなすのではなく、入院生活の中でできるだけ歩く機会を増やすようにしてくれた。おかげで退院時には立って歩ける程度には回復したが、それでも1度に10mも歩けないほどだった。

 4月末に退院し、ゴールデンウィーク中には、妻と家の周辺を歩いてリハビリに努めた。連休明けから出社したが、体力が戻っていないためラッシュアワーを避けたいと会社に申し出て、通常は8時半から5時15分の出退勤時間を1時間前にずらしてもらった。

 通勤は、バスで40分程度だ。自宅最寄りのバス停はマンションの目の前だが、バスを降りてから会社までは約200mある。当初はこの200mを歩くのがとてもつらかった。それでも毎日出勤しているうちに、体力は徐々に戻っていった。

 会社では2、3週間に1度、産業医との面談を行った。9月頃、産業医に「もうしっかり歩けているから、通常の勤務時間に戻しましょう」と言われて、時差出勤の配慮がなくなった。ただ、勤務時間が元に戻ったあとも、部下が心配して「早く帰ってください」というため、当分は残業もしなかった。

 5年以上経ったいまは、滑舌も歩行も特に支障はなく、普通に働けている。定年前にグループ内のシンクタンクに研究員として出向し、定年延長の後に退職した。いまはフリーランスで執筆や講師の仕事をしている。

 ただ、自分では気が付かないが、歩くときにふらついていると周囲から指摘を受けることがある。主治医によれば、三半規管に放射線があたったため、平衡感覚に影響がでたのだろうということだ。また、以前はお酒にかなり強い体質だったのが、治療後はビール1杯で真っ赤になってしまうようになった。

プロジェクトを守るため、病気であることを隠す

 当時、直属の上司は副社長で、古くからの親友だった。そこで上司には「実はがんだ」と伝えたところ、「仕事の損失は大きくなるだろうが、しかたがない。待っているから早く復帰してくれ!」と言ってもらえて、ありがたかった。

 ほとんどの部下には、詳しい病名は告げずに「察してくれ」とだけ伝えた。1名の部下にだけはすべて伝えたが、誰にも口外するなと厳命した。海外のビジネスマンは、組織と組織で取り引きするという感覚がない。プロジェクトは個人の熱意と信頼関係で成り立っているので、小倉さんが重病だとわかれば、その時点で進行中のプロジェクトはすべてキャンセルされるだろう。そう判断して、「小倉は他の案件で手が離せない」と言って、引き伸ばすように伝えた。また、入院中にもパソコンを持ちこんだり、自宅が近い部下に毎週病室に来てもらったりして、指示を与えた。しかし、出張はできなくなり、対応が鈍ったために、入院中に半分くらいのプロジェクトはキャンセルされてしまった。

 退院後1カ月ほど経ってから、部下を集めて「実はこういう状況だった」と説明した。部下たちは、激やせして顔色も悪い状態で戻ってきた小倉さんを見て、かなり心配してくれていた。社内でも何も説明しなかったので、さまざまなうわさが飛び交っていたようだ。部下たちは説明をきいて「安心しました」と言ってくれ、回復を歓迎する会を開いてくれた。その頃は、食欲は相変わらずわかないが、食卓に並ぶと食べなければいけないと思って食べるくらいには、回復してきていた。

 仕事には戻ったものの、出張ができなくなり、これまで通りというわけにはいかなくなった。電話で話すにしても、海外とは時差がある。早朝出勤のおかげでヨーロッパとは問題なかったが、アメリカのビジネスタイムとは完全にすれ違う。やむなくアメリカの件は、信頼できる部下に交渉をまかせることにした。細かい指示を出し、相手がこういった場合はこう返事して、こういうことならこう返事をするという想定問答集を作って、交渉にあたらせた。そのためか部下の交渉力が飛躍的に上がり、後継者育成に役立った。

主治医はすべてを説明して、自分で選ばせてくれた

 小倉さんは、19歳のときに母親を胃がんで、26歳のときに父親を大腸がんで亡くしている。両親が苦しんで亡くなるのを目の当たりにした経験から、がんは怖い病気だという思いが常にあった。そのため、自分ががんと診断されたときには、8割方自分は死ぬのだろうと考えた。最期のときには延命処置をしないでほしい、臓器はいくらでも提供するといった話を主治医にしたが、治療が奏功して命拾いをした。医学の進歩には、心底驚いた。

 両親ががんになった1970年代は、本人にはがんであると告げないことが一般的だった。小倉さんも、母親が生きる希望を失わないように病名を隠し通すことに苦労した。重病だと悟られないように、自分が見舞いに行く回数を抑え、母親の親しい人たちが見舞いに押し寄せないように入院先を知らせないほどだった。

 今回、主治医は病状をすべてオープンに話してくれた。がんであること、現在の状況、治療法の選択肢などを細かく説明して、治療法を小倉さんに選ばせてくれた。

 コンサルタントの仕事では、人を説得するときには、相手のタイプ別に方法を変えるというテクニックがある。例えば、小倉さんはドライバーというタイプで、すべて自分で決めたがる性格だ。ドライバーを説得するには、選択肢を示すのがよい。それぞれの選択肢について、メリット・デメリットを詳しく説明して選ばせると、ドライバーは自分の判断で決定したと感じて満足する。

 主治医のやり方は、まさにドライバーを相手にするコンサルタントだった。常に選択肢を挙げて、それぞれのメリット・デメリットを説明してくれる。小倉さんが「それで、先生はどう思うのですか」と質問すると、はじめて専門家としての意見を述べてくれた。100%理解した上で自分で決めることができ、小倉さんには何よりありがたかった。がんというプロジェクトを自分で管理していると感じて、ある意味楽しむこともできたくらいだ。医学部でコンサルタントの勉強をするはずがないのに、どうやって主治医はこのようなテクニックを身につけたのだろうかと思う。

月に数百万円の支払いが発生し、キャッシュフローに苦労する

 仕事のことでも困ったが、入院にあたっては、月々の医療費の支払いをどうまかなうかが大きな問題だった。

 病院の窓口では限度額認定証※の説明はなく、そういう制度があることを知らなかった。放射線と抗がん剤治療の費用は非常に高額で、差額ベッド料などを合わせると月の支払いが数百万円になることもあった。急に発生した高額な支払いで、下手をすると破産しかねない。

 小倉さんは両親をがんで亡くしたこともあり、かなり手厚い民間医療保険に加入して、がん特約も付けていた。また、会社の共済保険にも加入していた。しかし、契約時には、それらの保険がどのように支払われるかなど、考えもしなかった。あわてて調べて、民間医療保険は申請すれば毎月給付を受けられるとわかり、民間医療保険の申請日と給付日、病院への支払日など、月々のキャッシュフローを一覧表にして計画を立てた。最初の月はどうしても資金が足りずに友人から50万円を借りたが、それ以外はなんとかやりくりして4カ月間を乗り切った。

 民間医療保険と共済保険、それに高額療養費の給付をあとから受けて、友人からの借金はすぐに返済でき、最終的には黒字になった。民間医療保険に入っていて、本当に助かった。実際には利用しなかったが、先進医療特約に加入していたため、費用を気にせずに治療法を選択できたこともよかったと思う。

 闘病だけでも大変なのに、患者がこのようなお金の心配をしなければいけないのは問題だ。仕事柄、これを援助するサービスを新規事業として立ちあげられないだろうかと考えている。

※公的医療保険では、月の自己負担額が一定の限度額を越えたときに限度額以上をあとから払い戻してくれる高額療養費制度がある。限度額は所得等によって異なり、あらかじめ健康保険組合から限度額認定証の交付を受けて医療機関に提出すると、月々の支払いを限度額の範囲内で済ませることができる。

小倉さんの事例から学ぶこと

・社内外に情報を開示するかどうかは、仕事の種類など状況に応じて判断する必要がある。

・上司が親友で信頼関係があったため、安心して治療に取り組めた。

・保険に入っていても、月に数百万円という支払いが発生することがある。公的医療保険の高額療養費制度や民間医療保険の申請と給付のしくみを知っておく必要がある。

「新規事業の開発は個人の思い入れ!」「相手は提案者の人柄を見ている」。そういう強いリーダーシップで、複数本の案件を同時進行させていた小倉さん。業務の内容から、取引先や部下全員に病気を告げる訳にはいかず、それが社内で憶測を呼んでしまったといいます。病気を社内外に説明することの難しさを改めて感じます。唾液減少、筋力低下、食欲低下といった症状については、復職して業務を続けたこと自体が良いリハビリになったと思われますが、小倉さんご自身、辛抱強くセルフケアを続けておられます。その背景には、詳細な説明をしたうえで選択をまかせてくれる主治医の存在も大きかったと思われ、主治医との信頼関係が結果的に就労にも良い影響を与えた事例ともいえます。限度額認定証の情報がなかったためにキャッシュフローに不安が生じた点については、このような公的支援の情報が院内で確実に得られるしくみが必要でしょう。

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