丸の内は押しも押されもせぬ、金融・経済の中心地。120年に及ぶその歩みからは、日本経済の盛衰が透けて見える。「人と時代」をテーマに旺盛な執筆活動を続ける山岡淳一郎氏が、この地の過去と未来を語る
山岡 淳一郎(やまおか じゅんいちろう)1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。「人と時代」を共通テーマに都市開発、医療、現代史、スポーツなど幅広く執筆。著書に『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社)、『マンション崩壊』(日経BP社)、『ボクサー回流』『マリオネット』(ともに文藝春秋)、『命に値段がつく日−所得格差医療』(中公新書ラクレ・共著)ほか多数。
日本経済の顔として歩み、成長してきたビジネスセンター、丸の内。ノンフィクション作家の山岡淳一郎氏は、この街の来し方に、エネルギッシュでときに無謀なベンチャー魂の煌めきを見るという。
「ビジネス街としての丸の内の始まりは、三菱の二代目、岩崎弥之助が政府に押しつけられる形であの広大な土地を買ったことです。茫漠とした荒野でしかなかった土地をあえて引き受けたあたり、まさにベンチャー的な思い切った決断だったと思います」
明治維新後の丸の内周辺は、長らく軍用地だった。陸軍の兵舎があったほかは、練兵場という名の野原が広がるばかりだった。兵力強化に向け、これをまとめて麻布に移転する計画が動き始めたのは、明治もようやく20年を過ぎたころ。移転は莫大な資金を要し、それを調達するにはまずもって土地を売らねばならなかったが、13万5000坪に及ぶ野原を買う者などそうそういるはずもない。ときの大蔵大臣、松方正義はほとほと困り、岩崎に泣きついてこれを買わせた……というのが真相らしい。
「一つには三菱自身が転機を迎えていたという事情もあります。それまで巨万の財をもたらしてきた海運業が伸び悩み始め、ちょうど陸の商売の多角化に踏み切ったころでした。それにしたって大きな賭けには違いないでしょう。周囲の財界人はみな『あんな土地を買って何をしようというのか』と彼を揶揄したようですが、岩崎は『竹を植えて虎でも飼うさ』と笑い飛ばしたといいます」
三菱がその後いち早くこの地の建築制限を打ち出したことにも、山岡氏は目を見張る。ロンドンのような本格的なオフィス街に育てるべく、木造を禁止し、容積率をはじめとした細かい要件を作った。当時としては少々厳しすぎたこの規制は、丸の内の大半を長らく野原のまま放置し続ける一つの原因ともなった。しかし高すぎるハードルからは、あくまで目標実現を目指す情熱が伺える。これもまたベンチャー魂に通ずる大胆なビジネスマインドの表れといえるだろう。ちなみに明治20年代、ここに建った建築物といえば東京府庁舎と三菱1号館、2号館、3号館、そして東京商業会議所くらいのもの。広大な野原にこぢんまりと並ぶそれら西欧風の赤煉瓦建築は、「三菱村の四軒長屋」と呼ばれた。
丸の内はその後、日露戦争の勃発から明治末年にかけて、小さな発展期を迎える。馬場先通りに沿ったほぼ一丁(約109m)の間に西欧建築が建ち並び、「一丁ロンドン」と呼ばれたりした。ともあれビジネス拠点としての丸の内が決定的な進化を遂げたのは、なんといっても大正期だった。
大正期に丸の内は、ビジネスセンターへと急成長する。これに歩を合わせるようにして、現代の建築基準法の母体「市街地建築物法」も成立(1919年)。都市を単なる「人家の寄せ集め」から「面としての街」ととらえようとする建築観が芽吹いた。
「第一次世界大戦が始まった1914年からの5年間で、日本のGDPは3倍に、工業生産高は5倍に増えました。経済成長率でいえばこの間の伸びは実に年25%ほど。丸の内が今に至る存在基盤を築けたのは、大正期に日本経済に寄り添って成長したからでしょう」
この時期、丸の内ではその急激な発展を象徴する出来事がいくつも起きている。まずは1914年の東京駅開場。テナント専門のオフィスビルとしては日本初となる三菱21号館も、この年竣工した。その後数年のうちに帝国鉄道協会、台湾銀行をはじめ、三菱閥とは関係のない建物もどんどん増えた。そんな中、山岡氏が注目するのは1918年、東京海上ビルが完成したことだ。
「当時、第一次世界大戦で疲弊した欧州諸国は軒並み活力を失っていましたが、そんな中でメキメキ頭角を現したのが米国でした。それまで一般的だった赤煉瓦の建物ではなく、米国風の意匠をまとったこのビルからは、目指すべき目標を英国から米国にシフトしつつあった当時の空気が読み取れます」
時の勢いを得た丸の内は、その後、帝都を襲った関東大震災でもさほどのダメージを受けなかった。というよりこれを機に、丸の内の存在基盤はかえって強化されたともいえる。震災は帝劇を鉄道省を、さらには警視庁を燃やし、銀座をも焼け野原にした。そんな中、丸の内になお雄々しく立ち尽くす鉄筋コンクリートのビル群が、被災者たちの目にどれほど眩しく映ったかは想像するに難くない。実際、震災の前年、丸の内の事務所の数は514カ所に過ぎなかったのに、震災の翌年には1514カ所に急増している。「安全な丸の内」の存在感がにわかに高まったということだろう。
主だった建物を米軍に接収された戦後の占領期を経て、間もなく迎えた高度成長期に、丸の内はまた急発展を遂げる。老朽化した赤煉瓦の建物を取り壊し、近代的なビルに建て直すプロジェクトが進行。1960年代には高さがほぼ100尺(約30m)に統一されたビル群が、整然としたビジネス街の景観を形作った。今世紀になってからも、この街の進化と変化は止まらない。新しい丸ビルのオープン後は、オフタイムの遊び場としての認知が進んだりもした。
丸の内のこれからについて、山岡氏は「どこを目指すという具体的なお手本のないステージ」と表現する。明治期の当初は英国、第一次大戦後の大正期からは米国。日本が欧米に追いつき追い越せとがんばっていた時代、丸の内にはいつも目指すべき明確な目標があったが、今は違う……。「経済の多極化が進む中、欧米の尻を追いかけても意味がない。私たちは今初めて、自分たちで具体的な目標を作らなければならない時期を迎えているのかもしれません」
そこで山岡氏が提案するのは、アジア諸国に目を向けることだ。むろんただ真似るのではない。例えば雇用契約にしても、国が違えば法制度も従業員の意識も価値観も違う。互いのそれらを知り合い、擦り合わせ、違いを乗り越えられる特区のような場を作れたら、ビジネスセンターとしての新展開を期待できるのではないかという。
「丸の内の歴史に通底するベンチャー魂を今こそ励ますべきだとも思います。元気のある起業家が沸いて出てくるような環境を作らないといけない。次代に向けたインキュベーションに、街ぐるみで取り組むという手もあるでしょう。そうした努力は同時に、丸の内が未来に向けて影響力を保ち続けるための鍵になると思います」









