
東京オリンピックが開催された1964年。
私は、東京大学医学部の新米インターンとして、医学者として、生物学者として、研究に忙殺されていました。
新幹線が開通し、首都高速が次々とつくられ、道路が拡張され、まさに今の巨大都市東京の基礎ができあがろうとしていた瞬間だったわけですが、当時の私は、そんな東京の変遷ぶりにも、オリンピック自体にも、目を向ける暇がほとんどなかった。
マラソンでのアベベの活躍はさすがにテレビで見ましたが。
とまあ、けっして理想的なオリンピック観戦者ではない私ですが、40数年ぶりに東京で招致活動を行っていることは、今回の東京オリンピック・パラリンピック招致委員会の理事で開催概要のグランドデザイン担当である安藤忠雄さんから直接お話をうかがいましたから、かなり早い段階で耳にしておりました。
正直いいますと、かつての東京オリンピックがもたらした高度成長期以降の東京の開発のあり方、というものに、私個人は違和感を抱いてきました。
都市が自然を排除してきたからです。
『唯脳論』や『バカの壁』に至るまで、今まで何度も記してきたことを繰り返しますが、「都市」というものは人間の「脳」の活動の反映です。脳でシミュレーション可能な世界だけが残されていくのが都市であり、私はこうした脳内活動で完結する人間の場を「脳化社会」と呼びました。
この脳が生んだ「都市」と対になるのが「自然」です。自然は人間の脳の思い通りになりません。ですから、都市は自然を排除しようとしていきます。東京オリンピック以降の東京、そして日本は、まさに自然を排除して都市化していく、典型的な脳化社会になっていった。
私が40数年前、オリンピックと東京の変遷に目を背けていたのも、ただ忙しかったからだけではなく、都市が自然を追いやる日本の変化が気に喰わなかったからかもしれません。
でも、人間自体は絶対に自然から逃れられない。
なぜならば、「都市」が追い出してきた「自然」は、人間の中にあるからです。いや、人間そのもの、といってもいい。
そう、「身体」。「脳」に対する「身体」こそは、人間の内なる「自然」です。
「都市」と「自然」の関係は、「脳」と「身体」の関係と相似なわけです。
話をオリンピックに戻しましょう。
インターネットやケータイの発達で、世界はもはや処理できないほどの情報であふれかえり、脳化社会ぶりは極限に達したと言えます。東京もまた然り。
そんな東京に、52年ぶりにオリンピックが来るかもしれない。
オリンピックとはスポーツの祭典ですね。言い換えれば、人間の「身体」の素晴らしさ、優秀さを、世界中のあらゆる人種が集まり、競う大会です。
「脳化社会」の極みのような東京で、人間が己の「身体」=「自然」を競い合う。
しかも、安藤さんによれば、かつて東京の都市化の背中を押したオリンピックを、今度は東京の「自然」回帰の背中を押すイベントにしようという。
「脳化社会」東京で、身体の祭典を開き、自然回帰を目指す。オリンピック招致委員会の資料を読むと、そう連想できる。
となると、オリンピックやスポーツに疎い私にも興味深い話です。










