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第6回・豊臣秀吉――黒田官兵衛

~信長・秀吉・家康はいかに逸材を発掘し、活かしたか~

水谷 俊樹 作家・漫画原作者
日経BP総研 中堅・中小企業ラボ

2018年9月18日(火)

織田信長が本能寺で明智光秀によって暗殺されたことを知った豊臣秀吉は、中国地方を支配する毛利氏との講和をまとめ、光秀を討つためにわずか10日間で京に取って返した。秀吉が天下人への階段を上る分岐点となった、世に言う「中国大返し」である。

この大事業を軍師として取り仕切ったのが黒田官兵衛だ。

今回は、自らの命運を左右するような、いわばここ一番の状況で実力を発揮してくれる逸材をどのようにして発掘し、育成するのか、2人の主従関係から考察する。

「殿、これで殿の御運が開けたのですぞ」。信長の悲報を受けた際、官兵衛からこう告げられた秀吉は天下人への意を強くしたのではないか。(イラスト=月岡エイタ)
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「殿、これで殿の御運が開けたのですぞ」。信長の悲報を受けた際、官兵衛(右)からこう告げられた秀吉は天下人への意を強くしたのではないか。(イラスト=月岡エイタ)

「まずは人に好かれなければならぬ」

 人手不足と人材不足は違うという。

 “人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。

 前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。両者とも早急に手を打たなければならない。が、より急ぐべきは、突然、自社の命運を左右する状況が訪れたときに実力を発揮する、スキルとモチベーションを兼ね備えた人材の確保――つまり即戦力の加入だろう。

 天正元年(1573)に北近江の長浜城主となった羽柴秀吉(のち豊臣、1537~98)は、若手家臣の育成とともに即戦力となる人材の確保を急いだ。

 というより、一代で一国一城の主にのしあがった彼には、代々、仕える譜代の家臣がなかったから、優れた人材を外部から獲得(スカウト)する以外に方法がなかった。

 10代前半で親元を離れた秀吉は、放浪生活の中で、生来の貧しさや暗さを意識的に捨てる。彼は常に明朗快活な人間を演じ、道すがら他人に猿と笑われれば、いっそう顔を猿に似せたという。
(まずは人に好かれなければならぬ)

 秀吉は相手が誰だろうと敬意を払い、自己主張を控え、相手の意見を尊重するように努めた。そんな彼のもとには、多くの優れた人材が集まってきた。

 前回取り上げた竹中半兵衛(1544~79)の死後、入れ替わるように秀吉を補佐したのが黒田官兵衛(1546~1604)だ。

 官兵衛は、永禄10年(1567)に播磨国御着(現・兵庫県姫路市)の小大名・小寺氏の家老職に就いた。この年、織田信長(1534~82)は美濃を統一している。

 やがて官兵衛は東で勢力を拡大する織田家に注目し、成果主義(実力主義)による人材登用、最新兵器(鉄砲)の大量取得、楽市・楽座政策などから信長が天下を統一すると予測する。一方、毛利元就(もうりもとなり、1497~1571)亡きあと、西の毛利家は吉川元春(きっかわもとはる、1530~86)・小早川隆景(こばやかわたかかげ、1533~97)の2人を官兵衛は高く評価しつつも、総大将の輝元(てるもと、1553~1625)は天下を取れる器ではない、と分析した。