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第8回・豊臣秀吉――石田三成

“五奉行一の切れ者”

 本能寺の変後、天正11年(1583)4月に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を撃破した秀吉は、本格的に天下統一を目論む。彼の天下統一事業のなかで、裏方=内務官僚として大きな役割を担ったのが三成だ。

 賤ヶ岳以降の秀吉の合戦――四国征伐から九州征伐、小田原征伐や奥州仕置などは、1度に動かす軍勢の数は5万から20万という数になっていた。

 そんななか三成は、戦場の後方にあって軍資金の調達や兵馬・弾薬の補給、食糧の運搬などを企画・立案し、実行する軍奉行としての役割に真価を発揮する。その一方で彼は重要都市・堺の整備や、九州征伐後に戦乱で荒廃した博多の復興にも尽力していた。

 また、秀吉が始めた検地を「太閤検地」というが、三成は初期段階から検地奉行として携わっている。 彼は、南は薩摩の島津領、北は小田原征伐後の奥州仕置で大規模な検地を実施していた。さらに三成は秀吉の「刀狩り」でも重要な役割を担っている。

 つまり、秀吉は三成を自らが打ち出した、新しい時代の施策のほとんどに関わらせていた。

 秀吉にとって三成は理想的な内務官僚だった。

 また三成も秀吉の天下統一事業に携わることに“プライド”を持ち、武力で統一した天下を再編して近代的に統治することに“やりがい”を感じていた。

「五奉行」のなかで三成が一番若かったが、彼は“五奉行一の切れ者”として秀吉第一の側近となる。