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第8回・豊臣秀吉――石田三成

「私は戦が下手だ。力を貸してほしい」

 三成は、理想に実直で清廉潔白に生きたといわれる。

 そんな彼は実戦についても独自の見解を示していた。

 三成は合戦下手で、戦場で采配を振るうのが苦手だった。やがて彼は自分の弱みを補ってくれる武将を高禄で雇えばよい、と考えるようになる。このあたりは主君・秀吉に学んだのだろう。

 そんな三成が獲得した武将が島左近(?~1600)だ。実直な性格の彼は、正直に頭を下げた。

「私は戦が下手だ。力を貸してほしい」

 当時、“三成に過ぎたるもの”と揶揄されたほどの猛将だ。左近の勇名の効果もあって、三成の配下に次々と一騎当千の兵が集まってきた。彼らは皆、三成の魅力に惹きつけられる。

 しかし、そんな三成の性格は時に裏目に出ることがあった。彼の場合、相手を正論で責め、多くの敵を作ってしまったようだ。

 主君の一族や代々の重臣たちのことを譜代門閥層、主君に俄かに抜擢された側近たちのことを近習出頭人(きんじゅしゅっとうにん)という。豊臣政権の場合、前回みた加藤清正(1562~1612)が譜代門閥層、三成が近習出頭人だ。

 戦国時代や江戸時代には、政権の内部や大名の内部で、ことあるごとに門閥層と出頭人が対立した。

 秀吉の死後、三成は豊臣家の行く末をめぐって清正らと衝突。彼の実直な性格は、結果的に関ヶ原の戦いを誘発し、自らの命を落とすことにつながってしまう。

 ただ、三成は最後まで豊臣家に忠義を貫いた。そして彼は、どこまでも清廉潔白だった。

「権門勢家(けんもんせいか、権勢を誇る家柄)の石田三成のことだから、さぞ豪奢を極めた逸品が多かろう」

 関ヶ原の敗戦後、三成の居城・佐和山が落城したおり、寄せ手の将兵たちは略奪に心をときめかせたが、城内の建物は荒壁のまま、屋内も多くは板張り、障子や襖も反古紙(ほごがみ)を用いていたという。

 三成は俸禄のほとんどを家臣たちに与えていた。彼はこう言い残している。

「人に仕える者は、主人から与えられる物や俸禄を、全部使って奉公に万全を期すべきだ」

 さらに彼は続ける。

「使い過ぎて借金するのは愚人だが、使い残すのは盗人だ」

 「愛社精神」という言葉が終身雇用の崩壊によって、過去のものになりつつある今、三成のような人材を求めるのは、きっと時代錯誤だ。

 ただ、優秀な人材の離職を防ぐためには、秀吉が三成に活躍の場を設けたように、人材一人ひとりが自分らしく働ける職場環境を整備しておく必要はある。これはいつの時代も変わらない。