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第9回・徳川家康――井伊直政

水谷 俊樹 作家・漫画原作者
日経BP総研 中堅・中小企業ラボ

2018年12月10日(月)

徳川家康の天下取りに大きく貢献した家臣が4人いた。これを“徳川四天王”というが、このなかでいわゆる“中途採用”だったのが井伊直政だ。

下剋上の戦国時代とはいえ、後から加わる外様や新参が出世することは容易ではない。

そんななかで直政が頭角を現すことができたのは家康の独特な人材育成法があったからだ。それは外部委託――滅亡した武田家の家臣たちに直政の武将教育を委託したのだ。

やがて将として成長した直政は家康の側近中の側近となり、天下分け目の合戦では家康の期待に大きく応えた。

今回は約270年間続く江戸幕府を開いた徳川家康と、徳川四天王の1人として天下取りを支えた井伊直政の主従関係から人材育成について考察する。

徳川家康は自ら見い出した井伊直政に滅亡した武田家の遺臣(赤備え)を任せた(イラスト=月岡エイタ)
徳川家康は自ら見い出した井伊直政に滅亡した武田家の遺臣(赤備え)を任せた
(イラスト=月岡エイタ)
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「お前たちこそ、私の宝だ」

 戦国の覇王・織田信長(1534~82)の傍らにあって、結果として天下の覇権を手中にした豊臣秀吉(1537~98)と徳川家康(1542~1616)の2人――。

 徒手空拳から一国一城の主(北近江の長浜城主)となったとき、秀吉は37歳。彼はここから竹中半兵衛(1544~79)、黒田官兵衛(1546~1604)など即戦力の人材をスカウト(獲得)する一方、加藤清正(1562~1612)、石田三成(1560~1600)など若い人材の発掘・育成に力を入れた。秀吉の“家”には代々仕える譜代の家臣がいなかったからだ。

 一方、三河の小大名・松平広忠の長男に生まれた家康は、剽悍(ひょうかん、素早い上に、荒々しく強いさま)で知られた“三河武士”を擁する宗家で、譜代の家臣には事欠かなかった。

 家康が駿府の今川義元(1519~60)のもとで人質生活を送っていた頃のこと。彼が義元に先祖の法要を願い出て、故郷・岡崎への一時帰国を許されたことがあった。ときに家康15歳。彼にとって7年ぶりの帰国だったが、このとき岡崎城内には大量の軍資金や兵糧米が蓄えられていたという。

 無論、いつか正式に帰国する家康のために譜代の家臣たちが苦労して集めたものだ。

 家康は、忍従の生活を強いられている家臣一人ひとりに頭を下げて、労いの声をかけた。
「苦労をかけるが、いましばらく辛抱してほしい」

 家康の言動に彼らは皆、涙したという。

 秀吉に比べれば、家康は人材集めに恵まれていたといってよい。

 とはいえ、家康は幼少期以来の苦労人だ。彼は3歳にして生母と生き別れを余儀なくされ、6歳からは人質生活を送り、8歳で父と死別している。

 そんな境遇で育った家康は、常日頃、家臣たちを気遣っている。
「お前たちこそ、私の宝だ」

 家康と三河以来の家臣との絆は深く、その関係は生涯にわたった。

 また彼は、信長や秀吉同様に身分や出自を問わず採用。召し抱えた家臣たちを信頼し、長所を見出して大切に扱った。