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第9回・徳川家康――井伊直政

徳川四天王

 徳川家康の側近として、天下取りに大きく貢献した功臣を“徳川四天王”といった。酒井忠次(1527~96)、本多忠勝(1548~1610)、榊原康政(1548~1606)、井伊直政(1561~1602)の4人を指す。

 家康の家臣団といえば、三河武士を中心とした結束力の強さで知られたが、四天王のうち直政1人だけ隣国の遠江出身だった。つまり、直政は徳川家中にあって中途採用の外様、いわゆる新参だ。

 現在は雇用の流動化が進んでいる時代とはいえ、新卒入社の人に比べ、途中入社の人が出世するのは難しい。

 同様に、下剋上の乱世とはいうものの、戦国時代も中途採用の外様や新参が出世することは容易ではなかった。譜代や古参の家臣たちが黙っていないからだ。

 いつの時代も、大なり小なり譜代と外様、古参と新参の壁は存在する。当然、徳川家にもあった。

 そんななか、家康はどのようにして新参の直政を育成し、直政は家康の期待に応えたのか。

 2人の出会いは天正3年(1575)の冬――5年前に岡崎から遠江の浜松へ居城を移した家康が城下で当時15歳の直政を見出したとされる。もともと井伊家は遠江の井伊谷を本拠とする国人で、今川氏の被官(部下)。桶狭間の戦いで戦死した当主・直盛に男子がなく、一族から直親が迎えられたが、この直親が家康との内通を疑われて今川家に暗殺された。直政は直親の息子で、家康はそのことを知って彼を預かった、とも。

 家康の小姓となった直政が、徳川家中で存在感を示したエピソードがある。

 ある日、家康に従っていた直政は不運な負け戦に遭う。退却の途中、家臣の1人がとある神社に赤飯が供えられているのを見つけた。空腹だった家康と家臣たちは、それを貪るようにして食べたが、直政1人だけ手を出さない。何度か家康が気遣って促しても、彼は手を出さなかった。

「腹が減っては戦ができぬ。皆の足を引っ張らぬように食えと言っておるのがわからぬのか!」

 家康の怒号に対し、直政は毅然と答える。

「殿、いま敵に急襲されれば私が殿軍を務めます。ここで敵に敗れ、腹を裂かれたとき、胃の中に盗んだ供物の赤飯が入っていては末代の恥。そして何より、殿に恥をかかせることになります。どうかお許しを――」

 直政の言葉に家康は大いに喜び、やがて彼を重用するようになったという。