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第9回・徳川家康――井伊直政

家康流人材育成

 直政の戦闘スタイルは、初陣の頃から命賭けの捨て身のもので、生疵が絶えなかった。彼は新参が認められるには武功、つまり結果を残すしかないとわかっていたのだろう。

 天正10年(1582)3月、長年、家康を苦しめてきた甲州の武田家が滅亡する。家康は武田家の遺臣たちを召し抱え、戦国最強と謳われた武田家にあって常に先陣を任された部隊――山県昌景(1530?~75)の“赤備え”(部隊の軍装を赤に統一していたことから、こう呼ばれる)を直政に受け継がせた。ときに直政23歳。

 このとき、家康は直臣の木俣守勝(1555~1610)を若い直政の補佐役に据え、歴戦の猛者が集まる“赤備え”――武田家の遺臣たちに直政の育成を依頼したようだ。

 やがて武田の遺臣たちは直政を一軍の将になるよう教育を始める。彼らはまず、それまでただがむしゃらに戦ってきた直政に対して、彼が目指すべき目標を定めた。

「本多忠勝殿は、数十の戦に赴きながらかすり傷ひとつないと聞く。殿は本多殿を好敵手とされるがよい」

 さらにかつての主君、武田信玄や家康を例にあげながら、戦場で血気に逸る直政の心を諫める。
「自らの戦功を焦って数多の家臣を見捨てるなど、われら旧主(信玄)も大殿(家康)もなさりませぬぞ」

 優秀な家臣たちに恵まれた直政は幸運だった。以後、彼は一軍の将として立ち居振る舞いを心掛けつつ、彼らとともに徳川家の先鋒として数々の戦に臨んだ。このとき、大将として指揮をとったのは木俣だったという。

 やがて“井伊の赤備え”は、家康と秀吉の直接対決――小牧・長久手の戦いで天下に武名を轟かせ、秀吉の小田原征伐でも活躍。戦後、直政は並いる譜代・直臣を押さえ、徳川家中最高となる上野国箕輪12万石を与えられる。