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第9回・徳川家康――井伊直政

「これは、われらの戦である」

 慶長5年(1600)9月、直政は本多忠勝とともに家康本隊の一員として関ヶ原へ向かった。

 決戦当日――朝から小雨が降り、深い霧がかかっていた。午前8時、ようやく薄れゆく朝霧の中、直政は家康の四男・松平忠吉とともに30騎を連れて持ち場を離れた。

 この日の東軍の先鋒は直政ではない。事前の軍議では福島正則(1561~1624)率いる軍勢が先鋒をつとめることが決められていた。正則は秀吉子飼いの武将で、豊臣恩顧の代表格だ。

 古来より、大戦の火蓋を誰が切るか、大きな問題だった。

 このまま正則に先鋒をつとめさせたとすれば、徳川家は大いに面目を失うことになる。
(ここはなんとしても私が――)

 直政は忠吉とともに“物見”と偽って、先鋒の福島正則の軍勢の側をすり抜ける。

 (すべては徳川家のために――)

 そして東軍の最前線――西軍の宇喜多秀家の前に出た彼は、一発の銃声を轟かせた。

 「これは、われらの戦である」

 そこに直政の自己顕示欲はない。だからこそ“抜け駆け”という汚れ役を買って出たのだ。

 一度、始まってしまえば、それを咎める者などどこにもない。直政と忠吉は西軍の中に分け入り、幾つもの首級をあげる。さらに戦の大勢が決したあと、敵中突破を企てた島津勢の前に立ちはだかり、主将・島津義弘の甥である豊久を討ち取った。

 戦いが終わり、負傷した忠吉に付き従って、直政は満身創痍で家康の本陣に戻った。
「逸物の鷹(家康)の子(忠吉)は、さすがに逸物でございました」

 家康は直政と忠吉の活躍に満足しつつ、笑いながら答えた。
「それは鷹匠(直政)の腕がよかったからであろう」

 戦後、直政は敵の総大将・石田三成の居城・佐和山において18万石を与えられる。

 家康は言う。
「直政は口が重いが、一度事が決したなら決して躊躇せず、すぐに実行に移す。わしが考え違いをしたら、他の者のおらぬところでこっそりと意見してくれる。それゆえわしは何事であれ、直政に内談するのじゃ」

 関ヶ原における“世紀の抜け駆け”について、両者の間に“内談”があったかどうかは謎だ。

 家康は新参の直政を育てるために距離を置いた。徳川家中で直政の能力を最大限に引き出すためには、そうすることがベストだと考えたからだ。

 一方の直政は、常に新参として立場をわきまえ、スキルアップしながら一歩退いたところで徳川家中を見ていた。そして徳川家の命運を賭けた一戦で、彼は家康の思いを汲み取って大仕事をやってのけた。

 外部からスカウトした優秀な人材との、節度ある距離感――。

 雇用の流動化が進むいまこそ、家康が直政に行ったように、なるべく早く個々の能力を把握し、相性の良い組み合わせで仕事をさせる配慮が必要だ。