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第10回・徳川家康――福島正則

水谷 俊樹 作家・漫画原作者
日経BP総研 中堅・中小企業ラボ

2018年12月20日(木)

豊臣秀吉の死後、天下取りを狙う徳川家康は有力大名に接近を図る。その一人が秀吉の小姓から側近に出世した福島正則だ。そして大名の妻子を人質にとった石田三成が挙兵した際に、豊臣恩顧の大名が去就に迷う中、正則は真っ先に家康支持を表明する。これをきっかけに家康は天下取りに大きく踏み出す。

戦国時代は自分の家を守るため、主従の変更、現代でいえば転職は当たり前だった。家康と正則は何を考え、どう行動したのか。両者の主従関係から考察する。

「わしは内府(家康)殿に進んで荷担する!」。小山評定での正則の発言が、家康の天下取りを大きく前進させるきっかけとなった(イラスト=月岡エイタ)
「わしは内府(家康)殿に進んで荷担する!」。小山評定での正則の発言が、家康の天下取りを大きく前進させるきっかけとなった(イラスト=月岡エイタ)
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宝は命懸けで戦場を駆ける五百騎

 晩年の天下人・豊臣秀吉(1537~98)が、自らの名物茶器などの宝物を披露しながら問うた。
「そのほうは、どんな宝を所持しておるのか」

 臣下の徳川家康(1542~1616)は答える。
「私は殿下にお見せできるような品を持ち合わせておりませぬ」

(そんなことはなかろう)

 疑りの目を向ける秀吉に対して家康は「ただ、私には――」と続けた。
「私のためなら火水を厭わず、命懸けで戦場を駆けてくれる五百騎があります。これが私の宝でしょうか」

 確かに三河の小大名の長男に生まれた家康には、生来、彼のために命を投げ出す忠臣はいた。

 家康の生涯最大の危機といわれる武田信玄との三方ヶ原の戦いのおり、周囲の反対を押し切って出陣した家康は信玄に完敗。命からがらに敗走する家康の身代わりとなり、敵中に飛び込んでいった“三河武士”がいた。

 また、本能寺の変の急報に接したおりのこと。僅かな供廻りで堺見物中だった家康は取り乱した。

「信長公のご恩に報いるべく、手勢をもって(明智)光秀と一戦交え、正々堂々と斬り死にする」

 四面楚歌のなか、家康を諫止(かんし)し、伊賀越えを成功させ、無事に岡崎へ帰国させたのも酒井忠次(1527~1596)、本多忠勝(1548~1610)ら譜代の家臣たちだった。

 そんな家臣たちに対して、家康は日々、感謝や労いの気持ちを言葉や態度で伝えることを忘れなかった。彼は側近の老臣には敬愛の念を込めて「殿」づけで呼び、矢弾が雨と降りそそぐ戦場では、傷を負った家臣に自分の馬を与え、自らは徒立ち(かちだち、徒歩)となることも少なくなかったという。

 家康は生涯、苦労をともにした三河以来の譜代の家臣たちを重用した。

 それにしても、と思う。なぜ、家臣たちは家康を命懸けで守ることができたのか?

 おそらく家康は、常に自らの夢や志、徳川家が目指すべき将来のビジョンを家臣たちに示していたのだろう。そんな家康のビジョンを共有できていたからこそ、彼らは時に主君を叱咤激励し、諫めることもできたのではないか。