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第10回・徳川家康――福島正則

「もはや、私以外に天下を治められまい」

 第二次世界大戦後に確立された終身雇用制度が1990年代の経済不況により崩壊を始めるまで、転職はお世話になった会社への“裏切り”行為という風潮があった。

 雇用の流動化が進む現在も、その風潮は決してなくなったわけではない。

 ただ昨今は、ずいぶんと仕事に対する価値観、転職の捉え方も変わってきてきた。

(自分の生活を守るため、自分の価値をより高く買ってくれるところを選ぶのは当然だ)

 世は乱世、殺るか殺られるかの“弱肉強食”の時代――戦国の武士は、自らの“家”を存続させるため、よりよい生活をするために、武力も財力もある強い戦国大名を求めた。現在でいうところの転職だ。

 そして彼らを抱えた戦国大名は、常に数年先の将来を見越したうえで、どの大名と組めば“家”が安泰かを模索した。彼らも皆、それぞれの局面で自分の身の振り方を選択し、決断していた。

 慶長3年(1598)8月18日、天下人・秀吉がこの世を去った。享年は62。

 世は再び乱世の兆しが現れる。全国各地の諸大名は、自らの“家”を守るため、決断を迫られる。

 ただ、秀吉は徒手空拳から天下人になった稀代の苦労人だ。自らの死後、無策のまま、側室・淀殿の間に生まれた愛児・秀頼(6歳)を残して逝ったわけではなかった。彼は死ぬ間際まで家康を“律儀な御仁”と称賛しつつ、誰にも天下取りの野心をおこさせないように「五大老」や「五奉行」の制度を設けるなど、様々な政治・外交工作を施していた。

 そんななか、豊臣政権五大老筆頭の家康が動く。彼は有力大名と縁戚関係を結ぶことで勢力の拡大を図った。

 よく誤解されるが、この時期、来たる将来を見越して準備を始めたのは、決して家康だけではない。

 家康が縁戚関係を結んだ一人に福島正則(1561~1624)がいた。このとき正則は自ら進んで家康に近づき、家康の養女(家康の異父弟・松平康元の娘)を養嗣子の正之に娶せたともいわれる。

 正則は秀吉の叔母の子で、少年の頃から秀吉の小姓として仕えた。賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどで活躍し、文禄4年(1595)に尾張清洲城主となっている。彼は豊臣恩顧を代表する武闘派武将だ。

 この家康と正則の縁戚関係は、諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反する“裏切り”行為として、周囲から抗議を受ける。このとき正則は、この縁組は秀頼公の将来を考えてのことだと弁明したという。この時点で、正則は家康と組むことが豊臣家のため、ひいては福島家のためになる、と信じて疑わなかったようだ。

 慶長4年閏3月3日、秀頼の後見役となっていた前田利家(1538~99)が病死する。

「あと5年あれば、秀頼さまを奉じ、わしの力で諸大名をまとめてみせたものを……」

 当時、家康は信長、秀吉亡きあと、利家であれば豊臣恩顧の大名たちをまとめ、天下を治めることができるとみていた。信長の小姓からはじまった利家の戦国キャリアを考えれば妥当だ。その利家が死んだ。

 やがて豊臣家の行く末を巡り、秀吉が北近江の長浜城時代に召し抱えた石田三成(1560~1600)ら「近江閥」と、秀吉と正室・北政所が親戚から若者を募って取り立てた正則、加藤清正(1562~1611)ら「尾張閥」の軋轢が表面化する。

(もはや、私以外に天下を治めることはできまい)

 同年、北政所が大坂城西の丸から京都三本木の屋敷へ移り、家康が大坂城西の丸へ入った。

「豊臣家中で2つに割れた派閥の一方に乗る――」

 これが天下取りという大プロジェクトを前に、家康が策定した基本戦略だった。