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第11回 徳川家康――本多正信

「皆、わが家臣であることには変わりはない」

 駿府の今川義元(1519~60)のもとで人質生活を送っていた家康が本拠地の三河に戻ったのは、永禄3年(1560)のこと。同年、桶狭間の戦いで義元が織田信長(1534~82)に討たれたからだ。

 家康は生涯、健康管理の一環として鷹狩りをつづけたが、彼が三河に戻った頃、正信は鷹匠として徳川家(当時は松平家)に仕えていたという。ときに家康20歳、正信24歳。

 やがて家康は徳川家の主君として、尾張の清須城で織田信長と同盟を結ぶ。いわゆる「清須同盟」だ。

 家康は数年先の将来を見据え、家臣たちに「今川家からの独立」というビジョンを示し、信長が率いる織田家と組むことが“家”の存続につながると決断。そのうえで彼は三河平定に着手した。

 永禄6年、家康は三河平定の過程で、一向宗の門徒と衝突する。これを「三河一向一揆」という。

 当時、三河では一向宗(浄土真宗)門徒が大きな勢力をもっていた。

 摂津石山(現・大阪市)の本願寺を本拠地とした一向宗は、長引く戦乱に疲弊した庶民たちの心の拠りどころとして、全国各地に広まっていた。徳川家中にも一向宗の門徒が多く、正信もその1人。このとき彼は家康を裏切り、一揆方に荷担する。

 この戦いの最中、家康は一揆勢の放った鉄砲の弾が被弾するなど苦戦を強いられたが、翌永禄7年には和議に持ち込んだ。彼は一向宗についた家臣たちに言う。

「いまでも皆、わが家臣であることには変わりはない」

 このとき家康が罪は問わないという触れを出したこともあり、抵抗した多くの家臣が帰順した。

 そんななか、正信は家康のもとを離れ、諸国遍歴の旅に出る。やがて彼は畿内で勢力を拡大していた松永久秀(1510~77)に仕え、松永家を辞したあと、加賀(現・石川県)へ潜行して「加賀一向一揆」を先導したともいわれるが、その正確な足取りは伝わっていない。

 正信が家康に許されて帰参した時期は、早くて「三河一向一揆」から7年後の元亀元年(1570)頃、遅くても天正10年(1582)頃とされる。いずれにせよ、正信が歴史の表舞台に登場するのは、甲斐の武田家が滅亡し、本能寺の変が起こった、天正10年前後だ。