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第11回 徳川家康――本多正信

“裏切り者”が帰ってきた

 家康の家臣団といえば、“三河武士”を中心として結束が固く、家康への忠誠心の強さで知られた。

 そこへ過去に主君に刃向かった“裏切り者”が何の功もなく戻ってきたのだ。当然、正信を見る周囲の目は冷たく、受け入れられなかった。加えて彼に武芸や戦場での采配に才があったわけでもないから、相当、居心地は悪かっただろう。

 天正10年(1582)6月2日に起こった「本能寺の変」は、羽柴秀吉(のち豊臣、1537~98)や家康のみならず、数多いた戦国武将のターニングポイントになる。正信にとっても、そうだった。

 本能寺の変後、武田家の旧領が統治者不在の空白地帯となると、家康は家臣団を派遣して迅速に占領した。このとき正信は甲斐の統治にあたり、戦国最強と謳われた武田家の遺臣たちに本領安堵の書状を発行。彼らに権利を与えることで家臣団に取り込んだ。彼が徳川家中で頭角を現すのは、この頃からだ。

 さらに正信が家康の側近となるきっかけの一つに、石川数正(?~1592)の出奔事件があった。

 数正といえば、家康が今川家で人質生活を送っていた頃から酒井忠次(1527~96)とともに近習として仕え、長年、苦楽をともにしてきた重臣だ。そんな数正が天正13年の家康と秀吉の直接対決――小牧・長久手の戦いのあと、豊臣方へ謎の出奔を遂げた。一説に秀吉によるヘッドハンティングともいわれる。

 さすがの家康も狼狽した。そして彼は傍らにあった正信に問うた。

「数正のあと、岡崎城は誰に任せればよいか?」

 帰参後、正信は客観的に徳川家中の人材をみていたのだろう。彼は間髪を入れずに即答した。

「本多重次殿はいかがでしょうか」

 正信と重次(1529~96)に血縁関係はない。重次の通称は作左衛門。彼は家康の祖父・清康の代から仕えてきた重臣で、剛毅な性格と振る舞いから“鬼作左”と呼ばれた人物だ。正信は、主君を失って動揺する岡崎城の家臣たちを統制するには、規律に厳しい性格の重次が適任と考えたようだ。

 家康は正信の意見を採用し、以後、重要案件は常に正信の意見を聞くようになったという。

 天正18年の小田原征伐後、秀吉によって家康が関東へ移封されると、正信は相模国玉縄(現・神奈川県鎌倉市大船)に2万2000石の所領を与えられて大名となる。ちょうどその頃、家康と重臣との間で「力ずくで秀吉を攻め立てた場合、どこまで攻め上がれるか(西上できるか)」という話題になった。

 わが主君が秀吉に劣らないと信じる家臣たちの議論は熱を帯びたが、正信だけが議論に参加していなかった。家康が正信に目を向けると、彼は無言のまま首を左右に振り、家康は黙ったまま頷き返した。

 秀吉の対家康包囲網は背後に仕掛けがあり、関東の後方に名将・蒲生氏郷(1556~95)がいた。家康は動きたくても動けなかったのだ。そのことに気づいていたのは家康と正信の2人だけだったという。

 また、秀吉の死後、加藤清正(1562~1612)ら武功派が石田三成(1560~1600)ら官僚派に抗争を仕掛けたとき、窮地に陥った三成が家康に助けを求めたことがあった。正信は家康に耳打ちする。

「いま三成を殺してはいけませぬ」

 彼は、三成を中心に反徳川陣営の大名が挙兵すれば、それらを一度にあぶり出して一掃できるので、家康の天下取りが早く済むと計算した。

 正信には、将棋の名人が何手も先を読めるのと同じように、先の先までを見通す力があったようだ。