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第11回 徳川家康――本多正信

あえて嫌われ役を演じる

 やがて家康は、正信を朋友のように扱うようになる。彼の正信への信頼は深く、帯刀のまま寝所へ入ることを許したほどで、2人の関係は「君臣の間、水魚の如し」などといわれた。

 ただ、戦場での活躍を第一とする本多忠勝(1548~1610)や榊原康政(1548~1606)などは“帰り新参”の正信を認めず、「腰抜け」呼ばわりをするなど露骨に嫌った。

 そんななか、正信はどう立ち振る舞ったか。彼は自らが周囲に嫌われていることを自覚したうえで、一見、見当はずれな言動をしてでも、徳川家の発展を優先した。

 関ヶ原の戦いの前夜、下野小山で三成挙兵の報せを受けた家康は、まず三河以来の譜代の家臣のほか、直臣だけを招集して軍議を開いた。正信は「箱根の嶮(けん)を固く守り、東上する西軍を迎え撃つ」という消極策を進言したが、周囲は井伊直政(1561~1602)の「勢いに乗って西上すれば、決して我らは敗れませぬ」という積極策を支持し、家康も直政の意見を採用した。

 このとき正信は、天下分け目の決戦を前に徳川家中の士気を高めるため、あえて真逆の消極策を進言したという。さきの三成のエピソードも含め、関ヶ原の戦いは、正信が演出したといえなくもない。

 その後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍として江戸に幕府を開く。2年後、彼は秀忠を二代将軍に据え、徳川幕府が世襲制であることを宣言し、秀忠の後見として正信を江戸に置き、自らは駿府に入って大御所として天下の実権を掌握した。

 そして残されたのが、秀吉の遺児・豊臣秀頼(1593~1615)の処遇問題だ。

 家康―正信主従は豊臣家を無力化し、秀頼とその生母・淀殿(1567~1615)を大坂城から他へ移して平和裡に政権を移行しようとしたが、豊臣方がこれに応じず、大坂の陣へ突入する。

 慶長19年12月、天下一の巨城――大坂城に対して攻城戦が容易ではないと考えた2人は、冬の陣が休戦となるや講和の条件として外堀と三の丸、二の丸(内堀)を一気に埋めた。そして翌慶長20年5月の夏の陣で、裸の城となった大坂城を攻め、たった2日で決着をつける。

 家康は三河以来の譜代の家臣を重用したといわれるが、天下取りの過程で多くの優秀な人材を取り込んでいた。彼は譜代の家臣に気を遣いつつ、中途で採用した家臣の長所を見出して大切に扱っている。正信の長所は、他の家臣にはなかった諸国遍歴の体験、そのなかで培った情報分析力と冷静な判断力だろう。

 また家康の天下取りを助け、あえて嫌われ役を演じた正信は終生、相模国玉縄城2万2000石のまま、一切の加増を辞した。戦国乱世から泰平の世に移行する過程で、彼には戦場で活躍した武功派を粛清する役目もあった。そのためには何よりも、自らが清廉潔白でなければならないことを正信は知っていた。

 “出戻り社員”の受け入れはアリか、ナシか――再雇用をする際のポイントは、その人物が「出たあと、どのように成長したか」「戻ったあと、どう立ち振る舞うか」の見極めだ。