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第12回・徳川家康――藤堂高虎

「俺の価値はそんなものじゃない」

 本能寺の変から3年後の天正13年(1585)は、家康にとって苦難の連続だった。第一次上田合戦で真田昌幸(1547~1611)率いる真田軍に敗北を喫し、幼少から近習として仕えていた重臣・石川数正(?~1592)が突然、秀吉のもとへ出奔。さらに領内では地震が相次ぐなど窮地に陥っていた。

 その頃、秀吉は関白に就任し、天皇の権威を盾に全国の大名に停戦を命じることができる惣無事令(そうぶじれい)を出す権限を獲得。彼のもとへは臣下の礼をとるために、全国各地から続々と大名たちが集まっていた。

 当然、秀吉は家康に対しても上洛を促した。

 家康は当初、秀吉からの呼び出しを無視していたが、客観的にみて秀吉に対抗できる状態ではなかった。

 翌天正14年10月、家康は上洛する。彼は“家”を守るために秀吉に臣従することを決断した。

「この家康が家臣になったからには、今後関白殿下に鎧は着させませぬ」

 大坂城の居並ぶ大名を前に、家康が秀吉に陣羽織を所望した逸話は有名だ。

 家康と藤堂高虎(1556~1630)が出会ったのは、ちょうどこの頃のこと。秀吉の政庁兼邸宅として、京の伏見に建築中だった聚楽第の傍らに家康の屋敷が設けられることになった。このとき秀吉の弟・羽柴秀長(1541~91)の配下にあった高虎がその屋敷の普請奉行をつとめることになったことによる。

 殺るか殺られるかの“弱肉強食”の時代に、藤堂高虎は自らの生きる道を自らの力で切り開いた“戦国の武士”を代表する人物だ。

 北近江の地侍の家に生まれた高虎は、15歳で初陣して以降、どの主君に仕えても武勇を認められず、仕官先を転々として流浪の日々を送っていた。
(俺の価値はそんなものじゃない)

 やがて郷里へ舞いもどったところ、織田家の出世頭・秀吉が北近江の領主となり、羽振りがいいことを知る。天正4年頃のことだ。ときに高虎21歳。

 ここで高虎は秀長と出会う。高虎にとって秀長は5人目の主君だった。

 秀長は高虎に武勇だけでなく、兵術や算術などの学問の大切さを教え、やがて高虎に築城術の才能があることを見出した。高虎の人生は、秀長と出会ったことで一変したといってよい。

 そんな高虎が伏見の家康の屋敷を普請することになった。このとき両者の間にエピソードが残っている。

 秀吉からもたらされた屋敷の設計図を見た高虎は、自らの懐から費用を負担して設計を変えたという。

 後日、家康は高虎に問うた。
「この屋敷は、以前にみた設計図とは違うようだが、どういうことか?」

 高虎は毅然と答える。

「以前の公家風の造りでは警固に難点がございました。もし家康さまに不慮の事態が起こればわが主・秀長さまの不行き届き、ひいては関白(秀吉)さまのご面目に関わると思い、私の一存で変更致しました」

 高虎の配慮に感激した家康は、労いと礼の言葉をかけ、名刀・備前長光を贈ったという。以後、高虎と家康の間で書簡が往復されるようになり、両者の繋がりも深くなっていったことは想像に難くない。

 そして慶長3年(1598)に秀吉が没すると、高虎は急速に家康に接近する。