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第12回・徳川家康――藤堂高虎

家康、最後の決断

 秀吉の死後、当時、朝鮮出兵中だった日本軍の退却が議論された。

「全軍撤退が急務。さて、誰が引き揚げを指揮するか……」

 豊臣政権五大老筆頭・家康は言う。

「藤堂佐渡守(高虎)よりほかに、適任者はおりますまい」

 これ以前、高虎は天正20年(1593)の文禄の役で紀伊水軍を率いて朝鮮に渡海し、慶長2年(1597)の再戦では伊予水軍を指揮して活躍していた。家康は、そんな高虎をよく見ていた。

 また高虎も、どうやらこの頃から次代の覇権を握るのは家康との確信を抱いていたようだ。

 やがて豊臣政権を守ろうとする石田三成(1560~1600)と、豊臣政権を掌握しようとする家康との間で対立が表面化する。

 そんななか、一通の報せが高虎のもとにもたらされた。三成らによる家康暗殺計画だ。このとき高虎は、すぐさま暗殺計画を家康に告げ、未然に防いでいる。

 そして慶長5年の関ヶ原の戦いで、高虎は家康率いる東軍勝利のためにすべてを賭ける。彼は西軍荷担の諸将の切りくずしを担当し、戦後、その功により伊予今治に20万石を領する大名となった。以後、高虎は自らの居城のほか、家康の命により近江膳所城の築城、伏見城の修築、江戸城の天守閣の設計や二の丸、三の丸の増築に携わりつつ、家康の信頼を勝ち取っていく。この間、自らの正室と世子・高次を江戸に移し、住まわせてもいた。

 そして慶長13年8月25日を迎える。

 この日、駿府城内で高虎は、伊賀・伊勢安濃ほか計22万石への移封を伝えられた。ときに53歳。

 これまで家康は重要な拠点には徳川一門を配置し、直轄領としていた。そんな彼が伊賀・伊勢という重要拠点に外様大名の高虎を置いた。

 そして、徒手空拳で自らの地位を築いてきた高虎は、瞬時に何故、自分が伊賀・伊勢へ移封された意味を理解する。

(ついに家康公は、豊臣家討滅を決断された)