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第12回・徳川家康――藤堂高虎

「国に大事が起こったときは、先手を藤堂高虎とせよ」

 関ヶ原の戦いのあと、家康は豊臣家と良好な関係を築きつつ、その地位を逆転することに成功する。また、秀吉の遺児・豊臣秀頼(1593~1615)を一大名として残そうと画策もしていた。

 しかし、天下の巨城・大坂城に拠る淀殿・秀頼母子には、その心配りが悟れなかった。

 その一方で家康は、関ヶ原以来、懸命に積み上げてきた徳川幕府の実績、盤石の備えが、その実、自分1人の威名によって保持されていることを痛感してもいた。

(秀頼を大坂城に残したまま死ねば、天下は再び争乱の様相を呈しかねない)

 この年(慶長13年=1608)、家康は67歳。それに対して秀頼は16歳。そして彼がいる大坂城は亡き秀吉が叡智のかぎりを尽くして建築した日本一の堅城だ。たとえ、日本中の大名を総動員しても容易く落とせるものではなかった。いかにすれば、大坂城を短期日に陥落させることができるか。

 このとき家康が喉から手が出るほど欲しかったのは、大坂城内外の動静だ。

 やがて高虎は伊勢の安濃津(あのつ)城、伊賀上野城の大改修をおこなう一方、丹波篠山城、丹波亀山城の修築にも携わっていた。これらはすべて大坂方を包囲する使命を帯びていた。

 そして高虎は伊賀の“忍び”の統率に着手する。もともと家康と伊賀にはつながりがあった。家康の配下に伊賀に縁のある服部正成(1542~1596)がいた。信長による天正伊賀の乱のおり、傷ついた伊賀の人々の中には、半蔵を頼って三河に逃れた者たちがいた。このとき家康は、信長に黙って彼らを助けている。

 高虎はまず、正成の血縁者であるという保田采女を召し出して「藤堂」姓を与え、家老に抜擢。彼らが培ってきた忍びの技術を活用し、大坂方の情報を家康のもとへ送りつづけた。そして慶長19年11月、大坂冬の陣が勃発――約5カ月の講和を経て、夏の陣が開戦となる。

 この戦国最後の戦いで、先鋒をつとめたのは高虎率いる藤堂軍だった。高虎は大坂方の長宗我部盛親軍と激突。生涯でもっとも激しい合戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出しながらも大坂方の敗戦を決定的なものとした。築城、諜報、槍働き――大坂の陣における高虎の活躍は絶大だった。

 翌元和2年(1616)4月、家康が75歳でこの世を去った。臨終に際して彼は側近にこう伝えている。

「今後、国に大事が起こったときは、先手を藤堂高虎とせよ」

 家康は、信長や秀吉同様に採用する際に身分や出自を問わなかった。そして採用後は、日頃の立ち振る舞いや仕事ぶりをしっかりと評価した。

 余談ながら高虎は二代将軍・秀忠の親政となっても、その傍らにいる。

 “転職”経験が高虎の人を見る目を養ったのだろう。“治国の要”について彼は言う。

「国を治めるには何よりも、人を知ることが肝要でございます」

 さらに長所と短所を見極めたうえで、使うときは信じて疑わぬことが大切です、とも語った。

「上に疑う心があれば、下もまた上を疑う。上下互いに疑念を持てば、人心は離散し、国に大事が起きても力を尽くす者がない」

 三英傑以外にも、歴史上の人物から学ぶことは、まだまだありそうだ。