2017年2月下旬。宮城県の海の町、気仙沼市を、立命館アジア太平洋大学APUの学生3人が相次いで訪れた。目的は、「インターンシップ」。気仙沼で手編みニットの製造販売を行うベンチャー企業の気仙沼ニッティングと、気仙沼で珈琲豆の焙煎・販売を行い、東北地方で飲食店などを展開するオノデラコーポレーションとが、APUの学生たちをインターンとして採用したのだ。九州・別府市のAPUキャンパスで「混ざった」学生たちは、今度ははるか北の町、気仙沼に「混ざる」。2011年3月11日の東日本大震災に伴う津波で多くの犠牲を出し、そして復興の途にある気仙沼で、学生たちは、何を学ぶのか?気仙沼の人たちは何を受け取るのか?

APUと気仙沼市とは、2016年、友好協定を結んだ。第1弾プロジェクトが、APUの学生たちが気仙沼の企業にインターンシップとして派遣される今回の企画だ。協定を取り持った、御手洗瑞子さん率いる気仙沼ニッティングもインターンを受け入れる。御手洗さんは、APUの学生たちにとっても、気仙沼市にとっても、一過性ではない価値を残すプロジェクトにしたい、と考えている。そこで彼女が、学生たちに命じた仕事は、「気仙沼の暮らしを気仙沼の人々に取材し、英語で発信する」生きたクロニクルを作ることだった。

普通のおじいちゃんや、おばあちゃんの「気仙沼物語」を伝えたい。

気仙沼を訪れるのは、今回が3回目なんです。最初に訪れたのは、2011年3月11日からほぼ1年半後。当時、私は社会人で、母と一緒に訪れました。津波の傷痕がはっきり残っていました。

その後、私は会社を辞めてAPUに入学し、遅まきながら大学生になったんです。母と訪れた気仙沼のイメージが強烈だったこともあり、私は大学のサークルで被災地支援の活動を始めました。そして、2015年の秋、再び気仙沼を訪れたんです。今回同じくインターンとなったビクトリアも一緒でした。

気仙沼の復興の象徴ともなったツリーハウスが市内に完成した時で、ツリーハウスの横にある地元の名旅館「唐桑御殿つなかん」に泊まり、気仙沼の人たちと交流を深めました。

つなかんのおかみさんにはすっかりよくしていただきました。今回お世話になる気仙沼ニッティングの御手洗瑞子さんが下宿している水産加工業の斉吉商店さんのおばあちゃん「ばっぱ」には、彼女が切り盛りする食堂「ばっぱの台所」で気仙沼の海の幸をふるまっていただきました。気仙沼港近くの仮設食堂街の自治会長とも知り合いになり、すぐに仲良くなって、気仙沼の人たちとご飯を食べました。

私は京都出身で、それまで、東北の人といえば寡黙でシャイな印象しかなかったんです。でも、港町気仙沼で出会う人たちは、そんな私の勝手な東北人像を壊してくれる、お祭り好きで、おしゃべりで、開放的で、すぐに打ち解けてくれる。

そんなわけで、すっかり気仙沼ファンになったところに、2017年1月、気仙沼ニッティングでインターンシップを募集している、という話を学内で聞いたんです。絶対に行きたい!とすぐにボランティア仲間でもあったビクトリアと応募して、運良く採用いただきました。

今回のインターンシップで、御手洗さんからいただいたテーマは、「30年後に読まれる記事」を作ること、です。2週間のインターン期間中に、1日1人のペースで気仙沼のいろいろな人たちにお会いして、私とビクトリアとでインタビューします。

その人たちの生い立ち、幼少時代の思い出、現在のお仕事、震災の時のお話、気仙沼への思い、これからの展望など、個々の人の「個人史」を聞き出し、ブログを開設して日本語と英語で発信していく予定です。

東日本大震災を契機に、いろいろなメディアが気仙沼を含む東北地方を訪れましたが、実際にメディアが取り上げた気仙沼の人たちは全体のごく一部の地元の有名人で、しかも震災に絡んだ話に限られているケースが大半です。

今回は、むしろ気仙沼とともに生きてきた、普通のおじいちゃんやおばあちゃん、町の人たち一人ひとりに丹念にお話しをうかがい、皆さんが持っている、他の人に伝えていなかった個人の話、気仙沼の話を記録していきたいな、と思っています。

日本人の私と、アメリカ人のビクトリアがコンビを組んで回るので、いい意味で、日本人の私が聞いた話と、アメリカ人のビクトリアが聞いた話で、見方が違っていたりするであろう「差」も含めて、グローバルな視点で気仙沼の人々の個人史を発信できればいいな、と考えています。

APUのある別府と気仙沼はどちらも海辺の町ですが、雰囲気はずいぶん違います。別府は温泉街で観光客が多いから、ある意味で人づき合いそのものが「仕事」という側面があります。気仙沼は漁師町でもっと素朴な感じですね。でも、おおらかで社交的。こうした地方の差異を直接肌で知ることができるのも楽しいです。

今回、気仙沼に来る前に、APUの学生を対象に、気仙沼に関するアンケートをとってみたんです。そもそも気仙沼を知っているか、気仙沼に行ったことがあるか、気仙沼ニッティングを知っているか、といったことについて。

海外からやってきた国際学生たちはもちろん、九州別府のAPUに通う日本人学生の大半にとって、東北の海岸沿いの町、気仙沼はとても遠いこともあり、訪れたことのあるAPU学生はごくわずかでした。

私たちのプロジェクトで、気仙沼のことを知ってもらうようになれば、APUの学生たちが、私たちのあとを引き継いで、気仙沼で「なにか」をしてくれるようになるんじゃないかと今から期待しています。そのためには、まず面白いブログを開設しなければいけないのですが(笑)。

APUの学生たちにアンケートをとって感じたことでもありますが、気仙沼をはじめ東北のイメージは、まだ東日本大震災の被災地のイメージが強い。多くの人たちが大変な生活を強いられている、と思われていたりする。もちろん、そういう側面は今でもあると思いますし、復興は道半ばかもしれない。でも、実際にこうやって短期間だけど地元に住んで、町の人たちと話をしていると、明るく生き生きと未来に向かって生活していらっしゃる空気が伝わってくる。その明るさ、力強さみたいなものを、伝えられたらいいですね。

まず気仙沼という地域を知ってほしい。

私が気仙沼を訪れたのは今回が2回目です。気仙沼を初体験したのは、今回同じくインターンになった紫園さんと一緒に学生ボランティアとして訪れた2015年の秋。

気仙沼に対する最初の印象は、「緑が多くて、夏のロシアみたい」でした。私はアメリカのカリフォルニア出身なんですが、小学生の時モスクワの郊外に住んでいたことがあるんです。祖母がロシア出身なんです。

気仙沼のほんわかした自然の美しさは、ロシアの郊外の風景となんだか似た雰囲気で、初めての場所なのに「おばあちゃんの田舎みたいで、懐かしいなあ」と感じました。

私はまだまだ日本語も達者じゃないし、そのうえアメリカ人らしからぬシャイガール(笑)。人見知りをするたちなんですが、気仙沼の人たちは、みんなすごくオープンでフレンドリーなので、話していて楽しい。ボランティアで滞在していた数日間で、紫園さんと私はすっかり気仙沼ファンになってしまい、機会があったらまた来たいね、と話していました。

今回お世話になる気仙沼ニッティングも、この時に初めてお邪魔しました。御手洗さんはその前にAPUにいらして、なぜニット事業を始めたのか、講演してくださっていたのですが、私はその講演を聞いていなかったんですね。ですから、気仙沼ニッティングも、御手洗さんの存在もこの気仙沼来訪で知ったんです。

プラザホテルの横の海と山を見渡せるところに、青いブリキで吹いた小さなお家があって、それが気仙沼ニッティングのお店。横に大きな木が生えていて、なんてかわいいお店だろう、なんて景色のいいところなんだろう、と感激しました。お店の中には、気仙沼の女性たちが丹精込めて編んだカーディガンやセーターが綺麗に並んでいます。

そこで、御手洗さんのお話しをうかがったんです。

大学を卒業後、外資系コンサルティング会社で働いていたこと、ブータンの首相フェローになって、ブータンの産業育成を行っていたこと、その間に東日本大震災があって、ブータンから帰国後、「ほぼ日刊イトイ新聞」を率いる糸井重里さんからのお声がけがあって、気仙沼で地元の人たちが働ける新しい事業を立ち上げようと、気仙沼ニッティングをスタートしたこと……。

一見華奢に見える御手洗さんが、気仙沼ニッティングの話と、復興の話を、私に英語で実に明晰にしてくださって、かっこいい人だなあ、私もここでなにかできないかな、と思いました。

すると、2017年1月。学校のほうから、気仙沼ニッティングでインターンシップを募集している、というお知らせが。紫園さんと「私たちが行くしかないじゃない!」と応募して、今日、ここにいます(笑)。

気仙沼のユニークなところは、人口6万人ちょっとの小さな港町なのに、ものすごくグローバルなところ。今回、電車を乗り継いでJR気仙沼駅に着いた時に、紫園さんと、面白いシーンに出くわしました。

地元のおじさんとおばさんがお話しをしていて、おじさんのほうが「じゃあ、これからマダガスカルに行ってくるから!」と電車に乗って行こうとするんです。

気仙沼は遠洋漁業の基地で、東南アジアからアフリカ、ヨーロッパまで、マグロなどを取りにいく船が出入りしているそうです。だから、東京を飛び越えて、いきなり世界につながっている人たちが普通にいる。

ホームステイでお世話になっているのは、もう1人のAPUのインターン学生が研修を受けていたアンカーコーヒーの経営者一家である小野寺さんのおうち。こちらのおうちの長男で、アンカーコーヒーを取り仕切っている小野寺靖忠さん=やっちさんも、気仙沼からアメリカのイリノイ大学に進んだ国際派で、私とも英語で会話ができちゃいます。

大きなおうちにおかあさんと3人の男の子たちがいて、やっちさんのお父さんでアンカーグループの社長であるおじいちゃんとおばあちゃんもいて、3世代が一緒に暮らしている中に、私も紫園さんも混ぜてもらいました。ますます、小学生の時に夏を過ごしたロシアの祖母の家みたい。

今回のインターンシップの期間中の私たちのミッションは、紫園さんがすでに説明したように、1日1人、気仙沼の人たちからお話しをうかがって、英語で記事を作り発信することです。

シャイな性格ですけど、紫園さんはアメリカ人顔負けにぐいぐい突っ込むタイプで、私も小さな頃から人の話を聞くのが大好きなので、とっても楽しみなプロジェクトです。

APUの国際学生の多くは、東北のことを知りません。私も前回ここ気仙沼に来るまでは東北というのは寒いところだ、というイメージしか持っていませんでした。

今回のプロジェクトを通じて、私が英語で発信するからには、まずAPUの国際学生たちに読んでほしい、そして、ぜひ気仙沼の、東北のリアルを知ってもらいたい。

国際学生たちが日本で訪れるべき場所は東京や大阪や京都だけではありません。九州・別府からここ気仙沼に来るのはちょっと大変かもしれないけれど、日本が想像以上に広くって、多様性に満ちていて、それぞれの地域が、ユニークな文化と雰囲気を持っていることを、ぜひ知ってもらいたいです。

紫園さんは、アジア太平洋学部に在籍していて、私のほうは国際経営学部の学生です。仲良しだけど、2人が学んできたこと、考え方はけっこう違います。私は経済的な視点でものごとを見るのが好き。詳細な数字や事実に興味があって、小さな数字や事実を積み重ねて分析を繰り返し、いろんなことを明らかにする、という経済学的な手法を学んできました。大学で得た学び、マーケティング的な観点を将来は仕事に生かしていきたい。気仙沼でのこのプロジェクトは、その第一歩になる、と信じています。

「30年後に読まれる記事」を作るために気仙沼の取材に向かう。

気仙沼の暮らしを記録しておくことは意味があります。

気仙沼ニッティングは、東日本大震災後の気仙沼において、働く人が誇りを持てる仕事を作ろうと起ち上げた、手編みニットの会社です。気仙沼は漁師町で、編み物の上手な女性たちが多い。それに、編み物であれば、震災で多くのものが流されている土地でも、毛糸と編み針だけで始められる。そんな背景から生まれたのがこの気仙沼ニッティングです。

もともと私は東京出身で、震災を機に東北に来るまで、気仙沼とは縁もゆかりもありませんでした。そんな私がなぜ気仙沼に来る決心がついたか。今振り返ってみると、気仙沼の人たちの気質に惹かれたからだと思います。会う人会う人が、魅力的でした。

気仙沼の女性たちが丹精込めて編んだ高品質なニット。

気仙沼は、人口6~7万人の小さな港町です。東京から電車を乗り継ぎ、山越え谷越え、4時間かかってようやくたどり着く場所です。でも、そこに住む人たちは、グローバルな感覚の持ち主でした。長年遠洋漁業の基地として栄え、世界を股にかけて漁をしてきた人たちの街だからでしょう。

気仙沼の人たちは、海を通じて世界と繋がっています。また、自分たちが世界に出て行くだけではなく、日本中の漁船がここに寄港し水揚げをする。だから町にはいつでも「よそもの」がいて、町の人たちも、外から人がやってくることに慣れています。

だから、外の人に対してとてもオープンだし、漁業という仕事の性格もあって、リスクを取って新しいことにチャレンジするのが好きな人が多い。気仙沼の人たちは、狩猟採集民タイプだと思います。よく、日本人は内向きで、リスクを取ることが苦手と言われるでしょう。でも、気仙沼の人たちは真逆なんです。そんな人たちが集まっている地域が日本にある。それがとても興味深かったんです。

そんなチャレンジ精神があって、よそ者を拒絶しない気質の人たちだから、私みたいな若造が東京からやってきて、「編み物の会社を立ち上げます」とお話しした時も、「おもしろそうじゃない」と興味を持っていただけました。地元の女性たちが何人も「私もやりたい」と快く引き受けて、参加してくれました。気仙沼の人たちの進取の気質がなければ、気仙沼ニッティングはスタート地点にすら立てなかった、と思うんです。APUは「混ぜる」大学ですが、気仙沼は「混ぜる」街かもしれませんね。

2016年春、そんなAPUと気仙沼市とが友好協定を結ぶに至りました。2016年4月11日に協定の調印式が開かれ、APUから3人のインターンシップを招くことになりました。うち2人が気仙沼ニッティングでインターンを務めます。

一方で、気仙沼からは、地元の気仙沼高校の生徒が約20人、この3月にAPUを訪問します。気仙沼には、大学がありません。ですので、気仙沼の高校生たちは大学より先の人生がイメージしにくい。それに、気仙沼の外もほとんど見たことがありません。そんな高校生たちにとって、APUを訪問し、さまざまな国から来ている学生たちと交流する経験は、自分の世界を広げるきっかけになるのではないかと思います。

今回、APUからインターン生を受け入れるにあたって、大切にしたいと思っていたことがあります。それは、学生たちにも、気仙沼にも、意味のある仕事をしてもらうことです。

企業がインターン学生を受け入れても短期間の間でできることは限られているため、結局単純作業を任せることしかできないケースは多いかと思います。でも、それではもったいない。

インターンシップは、研修に来る学生たちがやりがいを見出すことができ、弊社にとっても、また地域にとっても意味がある仕事を作れる時にやりたいと思っています。学生の知恵や力を会社が借りたいと思う時にやるのが、お互いにとって健全な関係です。

APUの学生だからこそできること、そして学生たちを迎え入れた気仙沼の人たちにとっても何かが残ること、それはいったいなんだろうかと考えました。私の結論は、APUの学生たちに気仙沼の人たちを個別にインタビューしてもらい、それぞれの人たちの個人史を聞き、英語のレポートにまとめることです。彼女たちのまとめた英語のレポートは、うちのウェブサイトに掲載し、世界中の人が読めるようにします。

民俗学的に、気仙沼の暮らしを記録する、といえばいいでしょうか。かつて宮本常一は全国を歩き、その地に暮らす人々の話を聞き、『忘れられた日本人』という本にまとめました。この本は、今、当時の普通の人の暮らしを知るための貴重な資料になっていますし、なにより、読んでいて面白いものです。 この英語版を、気仙沼を舞台に作ってもらおうというのが今回の企画といえるかもしれません。

今、英語版のGoogleで「Kesennuma」と検索すると、東日本大震災関連の記事ばかり出ます。しかしこの地域には、それ以前からの文化や歴史、暮らしがありますし、それは今も同じです。それをちゃんと記録し、世界中の人が読めるようにすることはとても意味のあることだと思いました。

私は仕事柄、編み手さんたちと一緒にいることが多くあります。そうすると、問わず語りで、それぞれの気仙沼今昔物語が流れてきて、これがとても面白いんです。子供の頃、紙芝居屋さんが町にやってきて、海苔や牡蠣を持っていくとお金に換えてくれたとか。漁に出ている船の安全を祈願するために、暮らしの中で神さま事を大事にしている話とか。思わず聞き入ってしまいます。普通の生活の積み重ねであるこうした個人史にまつわる話は、誰かが記録していない限り、いずれ歴史に埋もれて消えてしまいます。

そこで、今回2人のAPU学生に気仙沼の人たちを毎日1人ずつインタビューしてもらい、英語のレポートにまとめてもらうことにしました。のちに、気仙沼ニッティングのウェブサイトで公開します。こうすれば、世界中の人たちが読める形で、気仙沼の人たちの話が残りますし、数十年後には民俗学的な価値のあるコンテンツにもなります。

また、アメリカ人であるビクトリアさんの視点でこれが記録されるのもとても面白いです。例えば、先ほどの牡蠣を取って紙芝居屋さんに持っていっていた話などを聞くと、ビクトリアさんは「紙芝居って、なに?」という疑問を持ちます。アメリカには紙芝居がないからです。そこでビクトリアさんはおばあちゃんに紙芝居ってなんなのかを尋ねる。私たちにとって当たり前のことも、外の目で見ると当たり前ではないことがあります。そこまで丁寧に掘り下げて記録していくと、あとから振り返った時に価値のあるものになると思います。

東日本大震災の情報だけでなく、もともとこの地域にある暮らしの面白さや、今の人たちの生活を、ちゃんと記録したい。それを、世界中の人に発信していきたい。APUの学生2人がそのスタートを切ってくれたら、このあとまたAPUの学生がインターンで来た時も、引き継いでもらえます。

このプロジェクトが契機となって、気仙沼の生活の歴史をAPUの学生たちが、さまざまな言語で発信し続ける、という「文化」が生まれたら、うれしいですね。

気仙沼ニッティング http://www.knitting.co.jp/

混ぜる教育

APU開学までの経緯から、多文化環境で実践する独自カリキュラムの内容、企業から見たAPUなど、ユニークなAPUの魅力をあますことなく収録した一冊。巻末には、早くからAPUの「混ぜる教育」に注目してきた、糸井重里氏による解説も。さらに、電子書籍も好評発売中。

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