APUを選んだ息子
東京・港区生まれ、港区で義務教育を受け、港区の進学校へ。都心の名門大学に進めば人生は上々だ。でも、偏差値で大学が決まる「常識」が嫌になった。はじめて東京を離れ、1人で混ざった留学生だらけのAPU。そこで出会ったボツワナの学生。遠かった世界が目の前に。さらにアフリカに留学し、学生たちを率い、アフリカとの会議を実現する。APUでは、自分が動けば、どんな場所でも、どんなことでもトライできる。この経験、次はビジネスで生かしたい。

APUに送り出した母
息子は経営者である自分の背中を見て育った。ヨーロッパに出向き、商品を仕入れ、販売する。感化された息子は、独立独歩の魂を磨いた。「都内の名門大学へ行けばいいのに」と高校教師に反対されたAPUへの進学。自分は、言葉少なに背中を押した。都会っ子は、アフリカを股にかけて学生たちを率い、英語で交渉できるタフな男になった。

APUに行く、と高校の先生に告げたら、全力で反対されました。

息子/赤尾紀明:僕が通っていた高校は、もともとは女子校でしたが、2007年に男女共学となり、一気に進学校を目指したんです。有名大学に生徒をたくさん送りこむべく、僕らはものすごく勉強させられましたね。クラス分けは成績順。頭が良ければ東大に、その次のやつは早慶に行け。とにかく勉強第一。そんな感じです。

僕が入学した時は、中学までやっていたサッカー部がなかった。だから1年生でサッカー部を作って僕が部長になりました。が、勉強に差し障りがないよう、練習は週3回まで。バイトも禁止。今だから明かしますけど、サッカー部の練習のない残り4日は、こっそりファストフード店でアルバイトしていたんです(笑)。

そうこうしているうちに成績がちょっと下がってきたので、負けてたまるかと吐く寸前まで勉強して、3年生の時には成績は良くなりました。ただ、ひたすらガリ勉をしているうちに、疑問に思ったんです。偏差値で進学先が自動的にランキングを輪切りにするように決まってしまうのってどうなんだろう、と。そもそも、自分は何のために勉強しているんだろう。勉強をした先に大学に見えてくるものって何だろう。

そんな時、APUのことを知りました。学校で進路のガイダンスを受けている最中、先生が、「APUって大学も、君らの選択肢としてはあるかなあ」と話したのを聞いたのがきっかけです。そのあと自分で調べてみたらこんなグローバルな大学があるんだと知ってびっくりした。

うちは、両親もそれから祖父も、みんな経営者でそれぞれ自分の会社を持っている。母は、仕事の関係でしょっちゅう海外に行っていた。僕も連れて行かれたことがあります。

APUの存在を知って、自分が大学に何を求めていたのかに気づきました。僕もいずれ海外に出よう。自分の親のように「経営」を生業としよう。その第一歩となるような大学に行きたい。APUはぴったりじゃないのか?

とはいうものの、一応、ほかのグローバル系の有力な大学はどうだろうと、いくつか調べてみました。帰国子女の日本人が多かったり、英語の授業に重点を置いていたり。僕が考えていた国際系の大学のイメージとどうやら違う。

頭の中だけで考えていてもしょうがないので、九州・別府にあるキャンパスに足を運ぶことにしました。高校3年生の11月。オープンキャンパスでも何でもない時に、高校の友人と中学時代の友人と3人でふらっと出かけたんです。

びっくりした。

外国人の留学生がいっぱいいる。想像以上に外国でした。これは、ほかの大学にはない環境だなあ。ここで得られるのは、単なる英語力なんかじゃない。グローバルな環境まるごとだ。4年いれば、きっと大きな力になる。何より、学生の半分が外国人。彼らと友達になれたらどれだけ楽しいだろう。幸い、ここには国際経営学部がある。僕の目的にぴったりじゃないか。僕は、APUに進学先を絞り、受験することにしました。

母/赤尾継子:APUのことを最初に知ったのは、息子を通じてです。彼は港区の公立小学校、公立中学を経て、同じ区内の進学校に通っていました。当然、東京の大学に行くと思っていたんですけど、高校3年の時に突然「とてもいい大学を見つけたよ」って。

「APU?知らないわ。どこの大学?」「九州の別府だよ」「別府!?」さすがにびっくりしました。でも、反対はしなかったんです。あなたのやりたいようにやりなさい。自分の責任でね、と。

我が家は、経営者がたくさんいるんです。私も、それから息子の父である元夫も、それぞれ会社を持って経営者をやっています。私の父、息子からすると祖父も経営者です。みんな独立独歩。親として援助はするけれど、自分で考え、自分で行動しなさい、と。

そんなわけで、息子自身は、すっかりAPUに進学するつもりになっていましたが、当の高校の先生が進学にものすごく反対したんです。全国から東京の大学をみんな目指してきているのに、なぜ、東京から九州・別府の田舎の大学にわざわざ行こうとするのかと。お母さんからも説得してください、と先生に懇願されました(笑)。

私自身は、息子が望むのならば、東京を離れてAPUに行けばいいと思っていたんです。港区生まれ港区育ちで、このまま都心の大学に進むと、東京の中心しか知らないまま大人になってしまう。それに、彼が、海外に興味を持つのは、私にも一因があったかと思います。息子の紀明が幼い頃はミラノのジュエリーを扱うビジネスも手がけていて、しょっちゅう海外に出かけていました。彼を海外に連れて行ったこともあります。外国人とのパーティーにも参加させました。

おそらくそんな私の背中を見ていた息子にとって、海外を目指すというのはけっして突飛なことじゃなかったんだと思います。

私がAPUに足を踏み入れたのは、息子の入学式の時。ワインディングロードを自動車で登って行ってキャンパスまでたどり着きました。見晴らしが良くって清潔で、うん、いい大学じゃないの。でも、キャンパスから下山している途中で、突然校舎が何だか修道院のように見えた。ああ、あそこに息子を置いていくのか。ちょっと悲しくなったのを覚えています。大丈夫かしら、あの子って。

紀明さんの幼稚園時代。

別府からアフリカへ。大学にいながらにして世界を舞台にできた。

息子/赤尾紀明:僕は入学後、大学の勉強と並行して、アフリカでのボランティアやビジネスに関わるようになりました。

アフリカとの出会いは、入学の瞬間です。APUでは、入学直前に、与えられた課題に取り組んで作文を作らなければいけないんです。僕の時には、入学してくる学生たちの国の数を全部調べてくるという課題がありました。僕はそういう細かいことが苦手なので、今までまったく知らない国を1つ選んで調べてみよう。そう思って選んだのがアフリカのボツワナでした。

そのあとすぐに、学生寮のAPハウスに入寮することになった時、初めて出会った男の子が、なんとボツワナからの留学生だったんです。たまたまボツワナについて調べたばかりだったので、いきなり意気投合しました。

「よくうちの国のこと知っているなあ、だいたいアフリカの国かどうかもわかんない日本人が多いんだよ。君みたいなボツワナ通には初めて会った」

彼と友達になって、日本人が持っているアフリカのイメージがいかにステレオタイプで薄っぺらいかを否応なしに知ることになりました。アフリカ大陸は地域によって文化も自然も多様で、とにかくでっかい。彼から聞いて、アフリカに対する興味がどんどん膨れ上がっていきました。

APUのユニークなところは、ただ真面目に授業を受けて、単位をとっているだけでは何の評価もされないこと。失敗していいから、自ら手を上げて、みんなを巻き込んで行動を起こす人間が評価される。アフリカに興味を持ったんだったら、行動を起こそう。僕は1年生の6月で、何もわからないままに、APUの学生とアフリカをつなげる「サークルZERO」を立ち上げました。

その数カ月後の9月に、アフリカに行くチャンスがやってきました。高校の時にお世話になった先生が、教師を辞めて海外青年協力隊の一員として、エジプトに赴任していたんです。

「赤尾君、遊びにこないか?」

アフリカのサークルを6月に立ち上げたものの、アフリカのことを何も知らない。そもそも行ったこともない。いい機会だ、行ってみよう。僕はエジプトへ向かいました。

最初は、行ったら何かしらできるだろうと過信していた。でも、現地に行ったら、まったくの役立たず。エジプトの貧しい子供たちのために活動している協力隊の前で、何もできなかった。ものすごい無力感を抱いて帰国しました。

僕たちはまだまったくの無力なんだ。まずはそれを知ろうよ。僕はサークルでアフリカを勉強するスタディーツアーを企画し、アフリカに足繁く通うチャンスを作りました。

2回生の時には、文部科学省の「トビタテ!留学JAPAN」の留学生に選ばれて、休学して半年間でマラウイ、ザンビア、タンザニア、マダガスカルの4カ国に行きました。

それぞれの国の官庁・団体や会社でインターンをやりました。マラウイでは政府観光省、ザンビアではアライアンス・フォーラム財団、タンザニアではJATAツアーズ、マダガスカルではアリックスという観光会社で働きました。

マラウイの政府観光省では、君は何ができるのって言われたので、次の日からプレゼンをして、マラウイの観光ガイドブックを作ったり、映像撮影をして観光コンテンツの動画を作ってホームページにアップして、観光ツールを作りました。

2014年10月、マラウイ共和国にて政府観光省のもとで調査活動を行った。

日本だと学生インターンはあくまで「お勉強」のイメージが強いのですが、少なくともアフリカ各国では、学生インターンであろうと、仕事で使えない人は採用してくれないんです。だから、自分でその職場で必要だけどまだない仕事は何かを考え、こんな仕事を作ったら有用ですよ、とプレゼンをして、しっかりかたちにしないといけない。

APUでの学生生活が、不慣れなアフリカでのインターンシップでの行動に役立ちました。APUでは、通常の授業も単純に先生の話をノートにとるというものよりも、授業を受けている仲間と一緒に考えて議論してプレゼンする、という内容がとても多い。オリジナルの発表をしないと評価されないから、嫌が応でも自分のアイデンティティーをしっかり出す力がつく。

それがAPUのいいところで、世界に飛び出た時にこの経験はすぐに役立つことを、僕はアフリカでの留学経験で実感しました。

アフリカとのつき合いはさらに深まり、昨年2016年8月には、日本が主催するアフリカ開発会議(TICAD)がケニアのナイロビで開かれた時、僕は日本の学生代表としてアフリカの大学生たちとカンファレンスに参加しました。

ケニアのナイロビで開かれたアフリカ開発会議(TICAD)に日本の学生代表として参加。

母/赤尾継子:最初は、ずっと東京育ちの息子を1人別府に置いていったことで、ちょっと不安に思うこともありました。でも、帰省するたびにたくましくなった。

ある時、「なぜ、アフリカに留学しようと思ったの?」と聞いたことがあるんです。すると息子は「お母さんは、仕事でも遊びでもメジャーな海外はだいたい回ってきたじゃない。だったら僕は、まだ周りの人が誰も行ってないところで自分を試したいと思ったんだよね。だからアフリカ」と返してきました。「パイオニア=開拓者じゃないと面白くないんだよ」とも。APUで学んできた考えなんでしょうね。

高校時代の同級生の子たちは、ほとんどみんな東京の大学に進学しました。普通に受験をしていたら、息子もその1人だったでしょう。選んだ先がAPUだったことで、息子はオンリーワンの体験を得ることができました。そんな大学はほかにないかもしれませんね。

APUでは、どんな大きな夢でも堂々と人に話せるんです。

息子/赤尾紀明:僕は自ら選んでAPUに行きました。だから言い訳ができない。APUでできることは何でもしようと思いました。とにかく自ら動こうと思いました。でっかい夢を持って、実現するためには何でもしようと考えました。

サークルを立ち上げ、アフリカに留学し、学生会議を主催しました。高校時代は思ってもみなかったことを大学時代に実現できました。

大学が僕のアフリカに関する活動を評価してくださり、「安藤百福名誉博士栄誉賞」を卒業時にいただくことになりました。こちらは、日清食品の創業者、故安藤百福博士が設置した奨学金で、アジア太平洋地域で大きな貢献を果たそうとしている卒業予定者を表彰するもので、卒業式の壇上で挨拶することになります。

アフリカに関する活動が評価され「安藤百福名誉博士栄誉賞」に選ばれた。

1回生の時、「APUってどんな大きな夢でも人に話せるんだよね」と先輩たちが話しているのを聞いたことをよく覚えています。

これって、日本の大学生がなかなかできないことですよね。特に偏差値の高い大学だと、ちょっと大きな夢を語ったりすると「お前、意識高すぎじゃね」と茶化されたりする。今考えると実に幼稚だなあと思うんだけど、高校の時もそういう空気があった。

でも、世界中から学生が集まっているAPUでは、みんながみんな「でっかいこと」を口にして、失敗してもいいからどんどん実行する。

学生たちは、この大学で育つうちに、どんなことでも自分たちにできないことはないと思うようになる。まあ、良い意味でも悪い意味でも、自信家になるんですね。でも、自分の夢を恥ずかしがらずに、友達に話せて、筋が通っていればみんながそうだねって言ってくれる。多分そんな大学のコミュニティーは日本全国を探してもAPUくらいしかないんじゃないかと思います。

就職先に僕は総合商社を選びました。自分が、アフリカに何度も行った経験を仕事で生かしたい、と思ったからです。

現地では、たくさんの商社マンとお会いしました。基礎的なビジネスの力とか、ネゴシエーションのやり方とか、取引先の信頼を得る力とか、大きな会社でありながら何もないところから最先端の情報を引っ張り出してくる力とか、実に尊敬できる仕事っぷりを見せてもらえました。日本の総合商社の大きさも実感しました。入社してどこに行くかはわからないけど、向かったところが舞台です。今から、仕事に就くのが楽しみで楽しみでならないですね。

母/赤尾継子:息子は日本とアフリカをつなぐパイオニアになりたいと言っています。それも、ボランティアではなくて、きちんと雇用を生み出せるようなビジネスを生み出したい、と。息子には、昔から「世界中どこでも食べていける力をつけた方がいいよ」と言い聞かせていました。図らずも彼が自ら選んだAPUという大学は、どこの国でも食べていける、どこの国でも友達を作れる、そんな人間としての根源的な力を、息子に授けてくれたなあ、と実感します。

混ぜる教育

APU開学までの経緯から、多文化環境で実践する独自カリキュラムの内容、企業から見たAPUなど、ユニークなAPUの魅力をあますことなく収録した一冊。巻末には、早くからAPUの「混ぜる教育」に注目してきた、糸井重里氏による解説も。さらに、電子書籍も好評発売中。

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