アスリートに聞く Vol.3

松田 努さん ラグビー

ラグビーの楽しさと「ノーサイド」の精神を
伝えていきたい

 日本が誇るラガーマンとして、長年にわたってラグビー界を牽引し、2013年3月、惜しまれながら現役に幕を下ろした松田努さん。現役時代は独特の大きなストライドと快足を活かしたフルバックとして活躍し、4大会連続でラグビーワールドカップ(W杯)の日本代表に選出された。また、日本ラグビー最高峰リーグ(トップリーグ)の最年長出場と最年長トライを41歳9カ月で記録するなど、「中年の星」と呼ばれた。現在は、社業の傍ら2019年に日本で開催されるラグビーW杯のアンバサダーとしても活動。不惑を過ぎてもなお、トップリーグの第一線で体を張り、走り続けた松田さんに、過酷な競技の世界で長く現役を続けられた秘訣を聞いた。

高校時代は無名だった選手が、大学で力をつけ日本代表へ

——ラグビーを始めたきっかけは何だったのですか。

 中学生のころに一世を風靡したテレビドラマ「スクールウォーズ」を観て、ラグビーに興味を持ちました。高校生たちがひた向きにボールを追い、体をぶつけていく姿に魅了され、面白そうだなと思ったのが最初でした。それから昼休みにラグビーごっこのようなことをするようになって、自分も本格的に始めたいと思うようになり、高校はラグビー部のある草加高校に進みました。

 高校3年生のときに埼玉県大会の決勝まで進みましたが、全国的にはほとんど知られていない選手でした。ですから、ラグビーの強豪校といわれる大学からの誘いはなく、卒業後は高校の先輩がいた関東学院大学に進学しました。高校ではある程度体格も大きくフォワードで出場する機会が多かったのですが、大学では監督に足の速さを見込まれてバックスに転向しました。このポジション転向によって、その後のラグビー人生が大きく変わりましたね。

——大学時代で印象に残っていることを教えてください。

 関東学院大学は今でこそ大学ラグビーの名門と呼ばれるようになりましたが、私が在学していた当時はまだまだで、国立競技場で初めて試合をしたのも私が3年生のときでした。その試合で私たちは6万人を超す観衆の多さにすっかり舞い上がってしまい、普段はやらないようなプレーをして空回り、結局は負けてしまいました。大舞台で本来の力を発揮することの難しさを痛感した一戦でした。

 大学在学中の1991年には初めて日本代表に選出されラグビーW杯にも参加しました。当時のルールではケガ以外での選手交代が認められていなかったこともあり、試合には出場できませんでしたが、世界の壁を感じることのできた貴重な経験でした。日本代表の試合に出場することができたのは、その翌年のことです。

最も記憶に残るのは、
オールブラックスに屈辱的大敗を喫した一戦

——東芝府中ラグビー部(現東芝ブレイブルーパス)に入られたのは、どんな経緯からですか。

 日本代表でお世話になった多くの先輩たちから熱心に誘っていただいたことが決め手でした。「会社とグラウンドが近く、自分の時間も取りやすい」といわれ、それはいいなと。すぐ近くには大好きな府中競馬場もありましたからね(笑)。1993年に東芝府中に入社し、1996年からのラグビー日本選手権3 連覇をはじめ、いろいろなタイトルを獲ることができましたが、実はそれらの出来事はあまり印象に残っていません。嬉しかったことは忘れてしまい、どちらかというと苦い思い出のほうが記憶に残っています。

——その苦い思い出とは? 

 1995年のW杯で、日本代表がニュージーランド代表のオールブラックスに大会史上最多失点となる145点を奪われて大敗したことです。このとき既に日本代表は予選リーグでの敗退が決まっていました。一方、オールブラックスは決勝トーナメントでの出番獲得を目指す若手が多く起用されていて、自分のパフォーマンスを監督にアピールしようという意気込みが漲っていました。ただでさえ圧倒的な実力差があるのに、試合に臨む心構えにも大きな差があったのです。また、戦術面でもオールブラックスは洗練されていて、選手同士よく意思が統一されていました。

 この敗戦で学んだことは、試合に入るまでの準備の大切さでした。コンディションの調整、心構えなどはもちろんのこと、戦術的なことも選手同士の間で共通の理解がないといけません。小さな疑問でもチームとして話し合い、意思を統一して、グラウンドには少しの不安も持ち込まないということです。屈辱的なスコアで敗れたことをきっかけに、大事な試合前には、やり残したことをつくらないように徹底して準備をするようになりました。

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