アスリートに聞く Vol.5

葛西 紀明 選手 スキージャンプ(土屋ホームスキー部監督兼選手)

さらなる高みを目指し、終わらない挑戦

 10代半ばで日本スキージャンプ界の将来を背負う逸材として注目を集めて以降、世界を舞台に活躍している葛西紀明選手。40歳を超えてなお第一線で飛び続ける姿を、海外では畏敬の念を込めて「レジェンド(伝説)」と呼ぶ。

 冬季オリンピック史上最多7度目の出場となったソチオリンピックでは、男子個人ラージヒルで銀メダル、団体で銅メダル獲得という快挙を成し遂げ日本中を沸かせた。直前に行われたワールドカップ(W杯)では、葛西選手にとって実に10年ぶりとなる優勝を飾り、同時に最年長優勝記録(41歳7カ月)も達成。数々の金字塔を打ち立ててきた葛西選手に、オリンピックへの思いや長い競技人生を可能にしている原動力、今後の展望について聞いた。

心技体の全てがうまくかみ合ったソチオリンピック

——ソチオリンピックを振り返っていかがですか。

 これまでのオリンピックは自分のジャンプができず悔しい思いをしてきたので、2つのメダルが獲れたことに満足しています。以前はシーズン中から常に全力で競技に挑んでいたため、オリンピック本番では体も頭も疲れてしまって調子を落とすことがありました。最近は適度なリフレッシュを心掛けるようになり、ソチではそうした取り組みの成果を含めて、心技体の全てがうまくかみ合いました。

 オリンピック前は充実した練習を積み重ねることができましたし、自分でも「いけるんじゃないか」という期待感は持っていました。それでも、ジャンプという競技は、踏み切る100分の何秒かの間に、パワーと方向、タイミングの全てを合わせる必要があり、その一つがわずかにずれるだけで飛距離を伸ばすことはできません。しかも4年に1度しかない大会ですから、個人ラージヒルのときは、ジャンプ台のスタート地点に着くとさまざまな思いが頭をよぎって、ひどく緊張しました。ただ、緊張はしていたものの「これを飛んだらメダルかな」といったことを、ボーッと考えていた気がします。重圧という意味では、団体戦のほうがはるかに大きかったですね。失敗すれば後輩たちに何をいわれるか分かりませんから(笑)。

——個人ラージヒルで金メダルを獲った選手との差は、総合ポイントで1.3、飛距離にするとわずか1m未満でした。

 あの試合は風が不安定で、誰が優勝してもおかしくない状況でした。私は2本目のジャンプで着地を少し乱したのですが、優勝したカミル選手も2本目は踏み切りのタイミングが遅れた失敗ジャンプでした。おそらく彼も相当な重圧があったのだと思います。私が成功していたとしても、彼も成功したかもしれません。「たられば」をいえばキリがありません。2本とも納得のいくジャンプができましたし、ようやく手にできたメダルは自分の力でもぎ取ったと思えるものでした。金メダルを獲れなかったのは、そういう運命だったのだと思います。「次へ頑張れ」ということなのでしょうね。

負けた悔しさがモチベーションになる

——ジャンプが恐いと感じたことはありますか。

 ジャンプの世界では、1991年頃からスキーを平行にするクラシカルスタイルから、両足をVの字に開くV字スタイルが主流になりました。V字スタイルは、目の前にあったスキーが消えて景色しか見えなくなるので、最初は怖くて足を開くこともできません。でも、何度も練習しているうちに、飛距離が20m以上も伸びたことがあったんです。まるでパラシュートを開いたように体が浮き上がる感覚でした。そのとき、V字に対応しなければ世界では勝てないと実感しました。怖くても、やるしかないなと。

 また、1994年と1995年に左鎖骨を2度続けて折ったときは、恐怖でしばらく飛べなくなりました。スタート地点に着いた瞬間、少しでも風が吹いていると転倒シーンが甦ってしまい、体が飛ぶことを拒絶してしまうんです。その後、恐怖心を克服するまでに10年かかりました。

——高いモチベーションを保ち続けられるのはどうしてでしょう。

 私はすごく負けず嫌いなので、負けた悔しさがモチベーションになっています。特に1998年の長野オリンピックの団体メンバーから外れた悔しさは、今日まで私を駆り立ててきた大きな原動力です。ソチでメダルを獲った後は、燃え尽き症候群のようになるかもしれないと思ったのですが、やはり「目標は金メダル」という気持ちが強く、全然そういう感じにはなりませんでした。1年くらいは休養してもいいのですが、どうしても走ったり、体を動かしたくなるので、今もモチベーションは落ちていないと思います。

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