『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』など、その代表作品をひとつでも読んだことのある方は多いことでしょう。日本を代表する作家として、大人にも子どもにもおなじみの夏目漱石。その年収、いかほどだったのでしょうか?

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どんなことをした人だった?
改めて経歴から・・・

夏目漱石プロフィール

履歴書

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功績とビジネススタイルは?

主な功績

  • 功績

    漱石がデビューする以前、印税の制度はまだ確立していませんでした。出版社は作家に一度しか原稿料を支払わない、「買い切り」が一般的なルールだったのです。つまり、その作品がどれだけ売れようと、作家の手元には追加収入が1円も入ってこなかったのです。漱石は教師を辞めて作家となるにあたり、出版社とよく話し合いました。そして初版で15%、増刷のときは20%、増刷がさらに重なった場合は30%という契約を、出版社とあらかじめ結んでおくようにしたのです。当然出版社側は渋りましたが、最終的には漱石の要求をのみました。漱石の前にも、小宮山桂介や森鴎外らが同様の契約を結んでいましたが、彼らの努力が、印税を一般的な制度にしたのです。

  • 功績

    ユーモアあふれる描写で知られる漱石の作品。日常的な言葉を巧みに日本語化し、文章に取り入れるのも仕事のうちでした。たとえば浪漫(ロマン)、沢山(たくさん)、月並み(つきなみ)など、現在では普通に使われている言葉ですが、実は漱石作ではないか?と考えられているものが、かなり見られます。可笑しい(おかしい)、可成(なるべく)、故意とらしい(わざとらしい)など、あまり一般的ではありませんが、漱石が好んで用いたユニークな当て字です。

  • 功績

    1984年から2007年ごろまで発行されていた旧1000円紙幣には漱石の顔が印刷されていました。実は、それ以前の紙幣には聖徳太子、高橋是清、岩倉具視、伊藤博文など主に政治家の肖像が印刷されていたのです。それが一変したのが1984年で、5000円札の新渡戸稲造、1万円札の福澤諭吉とともに紙幣の顔となりました。当時、芥川龍之介、正岡子規、森鴎外なども候補に挙げられていましたが、イギリス留学も経験した国民的な作家という点がポイントとなり、漱石が選ばれたのです。文化人の肖像は、日本が文化的に成熟した証しだったともいえます。

  • 功績

    漱石の脳は、東大医学部の標本室に保管されています。これは漱石が亡くなった翌日、その亡きがらが解剖されたためで、漱石の気持ちをくんだ鏡子夫人の申し出で実現したのです。その5年前、漱石夫妻は1歳になったばかりの五女・雛子を突然、亡くしました。死因は不明で、漱石は解剖を頼んで死因を解明しなかったことを悔やんでいたそうです。その経験から、自分の死を医学に役立ててもらおう、との思いが漱石にはあったようです。漱石の脳は普通の人の平均1,350グラムより少し重く、1,425グラム。前頭葉が人より発達していたことが判明しています。

夏目漱石のビジネススタイル

心身の病と向き合い、辛抱強く執筆活動に打ち込んだ

不遇の幼少期を過ごすも、辛抱強く学問に励む

漱石は夏目家の5番目の子どもとして生まれたのですが、明治維新後の混乱期で実家の家計が苦しく、望まれない子だったといいます。よって生まれてすぐに知人宅へ養子に出されるのですが、養子先の両親が離婚。9歳で実家に戻りました。しかし、21歳まで夏目家への復籍が認められないなど、不遇の幼少期・青年期を過ごしたのです。それでも英語を学ぶために塾へ通って猛勉強し、大学予備門予科に入学。ほとんどの教科で首席になるなど、見事に学問で頭角を現しました。

病弱の身体に鞭打って活動

漱石は元来病弱で、胃潰瘍、痔、糖尿病、肺結核などの持病がありました。また、幼いころに患った天然痘によって顔にアバタができ、外見にもコンプレックスがあったそうです。さらに40歳を過ぎてから鬱病にかかりました。心身両面の衰弱に悩みながら、執筆活動に打ち込んだ漱石。病気のため卑屈になり、癇癪を起こすことも多かったようです。それでも、鏡子夫人は常に喧嘩しながらも終生彼を支え、また週1回の勉強会には大勢の弟子たちが漱石を慕って自宅に集いました。その中には芥川龍之介や寺田寅彦などもいました。執筆活動は激務で、漱石の寿命を蝕むことにもなりましたが、その作品と名声は永久のものとなったのです。

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夏目漱石の気になる年収は…

年収

年収

年収

漱石は晩年、朝日新聞社の社員として、月給200円および賞与を得ていました。
年収にして3,000円です。
それに加え、作家として出版した作品の印税を、複数の出版社から得ていました。
作家になってから、亡くなる大正5年までに得た印税の合計を平均すると、
年に3,000円ほどになったようです。これらを合計した年収6,000円を現代価値に換算しました。

当時、大卒の初任給が40円(年収にすると480円=現代価値で約240万円)でしたから、
漱石の収入はかなりのレベルだったといえましょう。
大ベストセラー作家ともなれば、もう少し多くても良さそうですが、
当時は職業作家が満足な収入を得られなかった時代。
これだけ稼いでいた作家は、そうそういませんでした。

また当時、東京朝日新聞社の社長は、月給150円。
帝大教授の椅子を捨ててまで入社した漱石は、社長よりも高い給料で厚遇されたのです。

※1円=5,000円で計算。

文・上永 哲矢(うえなが てつや) 
参考文献:『値段史年表』『漱石の印税帖』ほか

DODAキャリアアドバイザーからのコメント

もし夏目漱石が現代のビジネスパーソンだったら

日本を代表する作家として知られ、旧1,000円紙幣の顔にもなっていた夏目漱石。現代のビジネスマンとして捉えたときに秀でている部分は3つあると考えます。

まず1つ目は、「推進力」。「印税制度を確立した」という有名な功績がありますが、ここに至るまでかなり大変だったのではないでしょうか。きちんと制度化するために、周りを巻き込み実際に動かす力は、現代の多くの企業でも求められる力です。未来の当たり前をつくったという点で、非常に秀でていると考えます。

2つ目は、「クリエイティビティの高さ」。
「沢山」や「浪漫」など、100年以上たった今でも、普通に使われている言葉をいくつも生み出したという点で優れていると考えます。また教師や作家など、マルチに活躍していたことを考えても創造力の高さが垣間見えます。

3つ目は、「意志の強さ」。
元々病弱で40歳を過ぎてから鬱病になるも、自らの病と向き合い、執筆活動に打ち込んだ経歴から、非常に強い意志を感じ取れます。彼には強い使命感があり、自分で決めたことはやり切る覚悟が誰よりも強かったのではないでしょうか。

以上の3つの要素から、現代の職業で例えると、ベンチャー企業の創立者を彷彿とさせます。それもメガベンチャーまで成長させる創立者になり得ると思います。既存の枠組みにとらわれることなく、前例のないスピード感でメガベンチャーへと成長させてくれるでしょう。

新しい企画や、世にまだないサービスを生み出すことも得意だと思うので、もし漱石が現代にいたらどんな価値を世の中に提供していたか、考えるだけでも楽しいかもしれませんね。

新田 淳

パーソルキャリア株式会社
DODAキャリアアドバイザー

アドバイザー

新卒で大手総合旅行代理店に入社。海外ツアーの企画・手配・添乗などの業務に従事。その後、IT系大手総合コンサルティングファームへ転職。ERPパッケージシステムの導入案件や、官公庁向けの業務改善・BPRプロジェクトなどに参画。その後、パーソルキャリア株式会社(旧:株式会社インテリジェンス)へキャリアアドバイザーとして入社。エグゼクティブのIT・コンサル領域を中心に、転職支援を行っている。

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