名門・早稲田大学の創始者であり、総理大臣を2度、外務大臣を5度も務めた政治家、大隈重信。テロリストの襲撃で大けがを負いながらも83歳の天寿を全うした政界の大物です。その年収、いかほどだったのでしょうか?

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どんなことをした人だった?
改めて経歴から・・・

大隈重信プロフィール

履歴書

履歴書

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功績とビジネススタイルは?

主な功績

  • 功績

    「明治十四年の政変」で政界を一時退いた大隈重信は、1882年に政治活動の拠点として「東京専門学校」を開校。当初は「早稲田学校」「戸塚学校」とも呼ばれ、政治経済学・法律学・理学の3学科でした。のちに坪内雄蔵(逍遥)を招聘し、文学科も設置されました。その後、学校は教育機関として発展し、1902年に早稲田大学となりました。

  • 功績

    早稲田大学野球部は1897年に創立され、120年以上の歴史を誇ります。初めての「早慶戦」は1903年11月、早稲田が先輩格の慶應義塾大学に「挑戦状」を送りつけて実現。いつも勝ったほうが相手の学校の校門まで押し寄せて万歳三唱をするなど、殺伐とした雰囲気だったようです。1905年には大隈の許可のもと、約3カ月にわたって米国に遠征するなど、画期的な野球活動を行いました。1908年、アメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学が対戦したとき、大隈は日本初の「始球式」を行いました。このとき、打席にいた1番打者は、「大隈大先生のボールを打つわけにはいかない」と空振り。始球式で打者がわざと空振りする慣例となったのです。

  • 功績

    1898年、板垣退助らと憲政党を結成し、薩長閥(薩摩・長州の出身者による派閥)以外では初の内閣総理大臣となり、日本で初めて政党内閣を組閣します。政党をつくったのは、より多くの国民が国を動かすことができるようにとの考えからでした。1907年、一度政界を引退しますが、1914年に2度目の内閣総理大臣に就任。総理大臣でありながら外務大臣も兼任するなどして奮闘しました。退任時の年齢は満78歳6カ月。日本の歴代総理大臣の最年長在任記録となっています。

  • 功績

    西暦とは、和暦の「平成30年」ではなく、「2018年」と数字だけで表記する年号のことです。日本では明治5年まで旧暦(和暦)を使っていましたが、この年から明治政府は、すでにヨーロッパで使われていた太陽暦(グレゴリオ暦)、つまり西暦に改めました。それを推進したのが、当時参議だった大隈重信。明治5年12月3日が1873年(明治6年)1月1日に変わり、現在に至っています。

大隈重信のビジネススタイル

ハンデを抱えながらも、政界をリードし続けた

字を書かずに勉強、仕事を続け抜く

大隈は藩の学校に通っていた若いころ、字が下手なことを気にかけ、それをコンプレックスに感じていました。そのため、以後は字を書かず、ひたすら暗記だけで勉学に励んだといいます。後に本を出版するときも自分では筆をとらず、口述筆記させるという徹底ぶりでした。よって、これだけ有名な人物にもかかわらず、直筆のものはほとんど残っていません。

右足を失っても第一線で活躍を続けた

1889年(明治22年)10月18日、外務大臣を務めていた大隈重信は、幕末に江戸幕府がアメリカやイギリスなど列強と締結した不平等条約の改正に奔走していました。大隈は各国の公使に対し、低姿勢で臨んでいました。これに憤りを覚えた玄洋社という政治団体の過激派が、大隈に爆弾を投げつけ、喉を突いて自殺しました。爆弾は大隈に命中、大けがを負いました。ドイツ人医師・ベルツの判断で右足が切断される事態となります。しかし、大隈はその後も精力的に活動し、9年後には初の内閣総理大臣に就任しました。

ライバル視しながら、才を認める

大隈は、政敵の伊藤博文をライバル視しており、そりも合いませんでした。1897年、神奈川の大磯に別荘を構えたとき、そのすぐ近くに伊藤の自宅があることを知ると、やがて引き払って別の場所に建て直すほどでした。しかし、大隈が早稲田大学を開校したとき、伊藤が「大隈はさすがに偉かった、この伊藤はただ頭を下げるほかはない」と言ったと聞いて喜びをあらわにします。そして伊藤が暗殺されたときは「なんと華々しい」と、なぜかうらやましがり、その後に大泣きしたといいます。ライバルとして忌み嫌いながらも、その才能や人格を認めていたのでしょう。

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大隈重信の気になる年収は…

年収

年収

年収

1915年(大正4年)当時、大隈重信は総理大臣。当時の総理の月給は1000円、
年収にすると12,000円でした(当時ボーナスの有無は不明のため抜いています)。
同年の大卒の初任給(月給)は35円、一般の給与所得者の平均年収が333円でした。
そこで、当時の1円を現在の1万円に換算すると、約330万円。
現在のサラリーマンの平均年収が約400万円なので、1万倍すれば大体合います。
当時、一般の給与所得者と総理では36倍の差がありました。
とはいえ、大隈はお金をため込まず、ほとんどすべて政治・外交活動に使っていたそうです。
ちなみに2017年時点で総理大臣の年収が約4000万円ですから、サラリーマンとの差は10倍に縮まっています。

文・上永 哲矢(うえなが てつや) 
参考文献:『値段史年表 明治大正昭和』『戦後値段史年表』『大隈重信伝』
『人間大隈重信』『早稲田の歴史』『早稲田ウィークリー』ほか

DODAキャリアアドバイザーからのコメント

もし大隈重信が現代のビジネスパーソンだったら

早稲田大学の創始者であり、現代においても早稲田の学生やOBに愛される大隈重信。現代のビジネスパーソンとして捉えたときに、大きく2つの軸で秀でていると考えます。

まず1つ目は、「先見の明」があったこと。日本を代表する私学である早稲田大学を設立したり、始球式を行ったりするだけでなく、現代では当たり前となった西暦(グレゴリオ暦)を採用するなど、未来の当たり前をつくったという点で、非常に秀でていると考えます。当時から日本だけで活躍するのではなく、国という概念がなくても活躍できるようなグローバルスタンダードに切り替えていったとするのであれば、非常にすばらしい限りです。

2つ目は、「意志の強さ」。

字が下手なことをコンプレックスに感じて、字を書かなくなったにもかかわらず、本を出版する時は口述筆記させるという徹底ぶり。ここまで徹底して仕事を続け抜くことができるのも才能ではないでしょうか。また、爆弾により右足をなくした後も精力的に活動し、内閣総理大臣にまで上り詰めたことからも、強い意志を感じます。

以上の2つの要素から、現代の職業で例えると、時代を先取りする能力が必要なコンサルティングファームで活躍できると考えます。またビジネスを進めていく経営企画や、先を見据えた行動計画を立てられるポジションも向いているかもしれません。早稲田大学を設立したという経歴から、組織や人を育てる人材教育や、人材開発のポジションでも活躍できたでしょう。

今日でもファンの多い大隈重信がもし現代にいたら、どんな世の中になっていたか、考えるだけでも楽しいかもしれませんね。

新垣 美乃

パーソルキャリア株式会社
DODAキャリアアドバイザー

アドバイザー

新卒で金融機関に入社し、信託商品の企画開発・法人営業を経験。大手金融機関(都市銀行、証券会社等)や大手上場企業を担当し、多様な信託商品の提案営業、契約書の作成、組成案件の管理に従事。その後、パーソルキャリア株式会社(旧:株式会社インテリジェンス)にキャリアアドバイザーとして入社。ミドル・エグゼクティブのITエンジニア・コンサルタント領域を中心に転職支援を行っている。

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