最近、隣席の同僚がめきめきと実践英語の力を付けてきた。同じ時期に英会話を習い始めたのに、上達スピードが明らかに違う。ある日、秘訣を聞くと、彼は自分のワイシャツの襟首をつまみながら、こう語った。「上達の秘訣は、このELI(エリ)だよ」――。
近い将来、こんな光景が当たり前のものになるかもしれない。ELIとは、服の襟に付けるマイクデバイスと専用スマホアプリからなる“ウェアラブル英会話教師”。ユーザーが日本語で話す内容を記録・解析し、その人の仕事の内容や、言い回しなどを踏まえた、最適な英会話レッスンをスマホアプリ上で生成するものだ。
一般的な英会話教材は自分と関係のない例文や単語を学ぶことが多いため、身近に感じられず、学習に身が入らないことも多い。その点、ELIでは自分の暮らしと近いシチュエーションの例文や単語で英会話レッスンを行うことができ、自然に上達も早まるという。
このELIを開発したのが、広告会社・博報堂のプロダクト・イノベーション・チーム「monom(モノム)」である。プロダクト開発に特化したクリエイティブチームとして、2015年に設立されたmonomは、事業/サービス/プロダクトのプロトタイプを自ら開発するほか、クライアントの事業/サービス/プロダクトのコンサルティングを行うことを主な役目としている。
「広告会社は、プロダクトのPRやブランディングでその価値を伝えることで、企業と生活者をつなげる役割を担っています。しかし、AIやIoTの進展により、プロダクトそのものを通じて企業と生活者がダイレクトにつながるようになりました。それならば、我々自身がこれまで培ってきた知見やノウハウを、AI/IoTデバイスの開発というかたちで生かせるのではないか。一見、モノづくりとは縁遠い存在と思われがちな広告会社が、こうしたプロダクト開発を手掛ける理由はそこにあります」と博報堂monomの谷口 晋平氏は述べる。
monomが手掛けたプロダクトはELIだけにとどまらない。例えば、「Pechat(ペチャット)」は、ぬいぐるみを“おしゃべり”にするボタン型デバイス。ぬいぐるみの胸元に取り付け、専用のスマホアプリでテキストを選択すれば、あたかもぬいぐるみがしゃべっているような楽しさを味わえる。子どもと内緒話をする、一緒に歌を歌う、物語を読み聞かせするなど、様々な使い方ができる。「育児を楽しくアシストする新しいコミュニケーションツールを作りたい。そんな発想から生まれたプロダクトです」と谷口氏は説明する。
また、博報堂グループのSIXと共同開発した「Lyric Speaker(リリック・スピーカー)」は、音楽と同期して歌詞を表示するスピーカーだ。モバイルデバイスで好きな音楽を再生すると、その歌詞がモーショングラフィックで浮かび上がる。レコードやCDを買って音楽を聴いていた世代は、多くの人が歌詞カードを見ながら音楽を楽しんでいた。その体験を現代にアップデートしたいと開発したものだ。「歌詞を表示するだけでなく、スピーカーの新しいあり方を提示するため、透過ディスプレイの前面にスピーカーを配置し、歌詞とメロディーが一体的に感じられるようデザインしました」と谷口氏は述べる。
いずれもこれまで市場になかった切り口の商品であり、販売開始以降、品切れが続出するほどの売れ行きを続けているという。
monomは、AI/IoTのプロダクト開発において4つの視点を重視している。
1つ目は「データに価値を与える」ことだ。生活者にとって、データそのものに価値があるわけではない。生活者の視点に立ってデータの価値を新たにデザインし、その人にとって習慣的に必要なデータに変える作業が必要だという。
例えば、ELIが取得する日常会話のデータはそれだけでは価値はないが、その人にマッチした英会話レッスンを作るためには価値のあるデータになる。「どんなデータを取得し、どんな新しい価値を与えるか。ここの設計を誤ってしまえば、優れたプロダクトを作ることは難しいでしょう」(谷口氏)。
2つ目は「ビヘイビア(行動)のデザイン」を考えること。優れたプロダクトは、生活者に無理を強いず、今の行動様式や生活の中にスムーズに入っていけて、なおかつ新しい体験で生活をアップデートしてくれるものでなければならないからだ。
「さらに、AI/IoTのプロダクトは、買ったときが完成形ではありません。ユーザーの暮らしが変化していく過程で、プロダクトをどう成長させていくのか。そのシナリオを設計しておくことも、重要なポイントといえます」と谷口氏は主張する。
3つ目は「ユニバーサルインサイト」の視点。生活者が本当に欲しいものは何か、生活者の気持ちを動かすものは何かをとことん考えることである。
「例えば、Pechatがヒットしたのは、単に『ぬいぐるみがしゃべる』からではありません。生活者の気持ちを動かしたのは、『ずっと一緒に過ごしてきた大切なぬいぐるみが、ある日、突然語りかけてくれる』から。誰もが心のどこかで願ったことのある思いが叶うという『体験』が、多くの人に共感してもらえたからだと思います」と谷口氏。monomでは、こうした体験に至る「ストーリー」をまず描き、そのためにプロダクトはどうあるべきかを考えるという。
そして最後の4つ目が「クリエイティブ・ダイバーシティ(多様性)」を大切にすることだ。これからのモノづくりはサービス、コンテンツ、そしてマーケティングに至るまで、モノを取り巻くすべての体験とビジネス全体をデザインすることが問われる。そのためには多様な人材が連携することが欠かせない。「monomはクライアントや外部パートナーも含めてメンバーを選定し、動的なチームを組成してプロジェクトに多様性を取り込んでいます。メンバーの多様性がそのままモノづくりの力になるのです」と谷口氏は語る。
AI/IoT時代のモノづくりは、生活者の体験を高めるデザイン力が重要になる。広告業で培った人の気持ちを動かすノウハウを強みに、ヒット商品を連発するmonomの取り組みは、AI/IoT領域のプロダクト開発を検討する企業の良い手本となるだろう。