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Event Review

ヘルスケア × デザイン / チュラロンコン国王記念病院 × タイビジネス経済研究開発機構

医療体験は「人の理解」から変わる

病院の混雑や待ち時間、検診を受けない人の存在は、設備や制度だけを整えても解決できない。重要なのは、患者がどこで迷い、何に不安を感じ、なぜ行動できないのかを理解することだ。セリッチ・チョーティパーニット教授とナレス・ダムロンチャイ博士は、病院の動線改善や子宮頸がん検診の事例から、複雑な医療課題にデザイン思考をどう生かすかを語った。

混雑を「見える問題」に変える

チュラロンコン国王記念病院
副院長(施設開発・管理担当)
セリッチ・チョーティパーニット氏(左)

ファシリティ&プロパティマネジメント、およびプロジェクトマネジメントを専門とする建築管理分野の権威。著書や教科書、研究論文、学術記事など多数の著作を有する。現在は、タイ赤十字社チュラロンコン国王記念病院(KCMH)の施設開発・管理部門の副責任者を務める。病院内の建物、空間、インフラ設備を含むすべての環境整備を統括しており、プロジェクト計画から設計、施工管理、維持管理まで、その業務範囲は多岐にわたる。2018年以降、総額80億バーツ(約400億円)を超える200以上の設計・建設プロジェクトを指揮。1日2万人以上が利用する延床面積70万平方メートル超の施設群を、年間14億バーツの予算規模で運用・管理している。チュラロンコン大学で建築学士、テキサスA&M大学で不動産開発修士を取得後、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて修士(ファシリティ&環境管理)および博士(建築環境:ファシリティマネジメント)の学位を取得。チュラロンコン大学ファシリティマネジメント研究センター(CFMS)の創設者でもある。

タイビジネス経済研究開発機構(IBERD Thailand)
理事
ナレス・ダムロンチャイ氏(右)

25年以上にわたり、国際舞台で組織変革を牽引。タイ国ライフサイエンスセンター(TCELS)CEOをはじめ、タイ日本技術振興協会(TPA)事務総長やGenepeutic Bio社のCEOを歴任。数億バーツ規模の予算管理と強力なチームビルディングにより、タイを東南アジアにおけるライフサイエンス・イノベーションの拠点へと押し上げた。現在は、鋭い戦略的ビジョンとグローバルなネットワークを武器に、最先端のスタートアップ・コミュニティを構築。タイの次なる経済成長をリードし続けている。

 かつてのキング・チュラロンコン記念病院では、早朝から患者が建物の外まで列をつくり、館内に入っても次にどこへ行けばよいか分からない状態だった。現在では、明確な受付場所や案内表示、快適な待合スペース、緑のある空間が整備されている。

 この改善を主導したセリッチ・チョーティパーニット教授は、最初から大規模な建て替えを計画したわけではない。出発点となったのは、現場で感じられていた不便を、解決可能な「問題」として可視化することだった。

 「誰もが混雑を目にし、肌で感じていました。しかし、問題の本質を理解していたわけではありません」

セリッチ・チョーティパーニット氏

 患者や看護師は不便を感じていたが、どこで、なぜ混雑が起きているのかは構造化されていなかった。そこで患者の移動を調査し、受付から診察までの動線を図にした。すると、サービスが順番通りに配置されておらず、患者が院内を行き来していることが分かった。動線を重ねると、複数の線が絡み合う「スパゲッティ図」のような状態だった。

 課題を数字や図で示すことで、医療スタッフも初めて同じ問題を共有できた。チームは、受付、案内、診察、待機のプロセスを順序立て、必要な機能を患者受付周辺に集約。現在地と次の行動が分かるよう、サービス手順を示す案内表示も設置した。

 問題は、単に患者数が多いことではなかった。患者が迷い、同じ場所を行き来し、必要以上に滞留するサービス設計そのものに原因があったのである。

 小規模な改善で効果が確認されると、取り組みは病院全体へ広がった。それまで存在しなかった明確な正面玄関とチェックインポイントを設け、受付用のキオスク端末を導入。端末の数や配置は、患者の受け入れ人数や移動速度を計算し、複数のレイアウトを検証して決めた。

 「デザインの導入は、大きな石を池に投げ入れ、波紋を広げるようなものです」

 空間の改善は、案内表示や受付票、ITシステム、診察時間の運用にも波及した。現在は予約時刻の1時間前にならなければ受付票が発行されず、早朝から来院して長時間待つ必要がない。医療におけるデザインとは、建物を美しくすることではなく、人がどう動き、どこで迷い、どこで不安を感じるかを扱うことなのである。

制度があっても人が動かない理由

 病院内の体験を改善したセリッチ教授に対し、ナレス・ダムロンチャイ博士は、医療サービスを人々の生活の場へ届ける取り組みを紹介した。

ナレス・ダムロンチャイ氏

 ナレス博士が重視するのが、「20%の事実と80%の解釈」という考え方だ。

 幼い頃に聴覚障害を指摘された友人の子どもは、医師の診断に家族が大きなショックを受けたものの、治療法を探し、補助機器の導入や訓練を続けた結果、大学院を卒業するまでに成長した。この経験からナレス博士は、医師が病状を理解していても、患者や家族の感情まで理解しているとは限らないと指摘する。

 「実際に起きている事実は20%で、残りの80%は、本人の解釈や期待、感情、不安です」

 同じ事実でも受け止め方は人によって異なる。医療体験を改善するには、制度や治療内容だけでなく、この80%を理解する必要がある。

 新型コロナウイルスの流行時には、陽性になれば隔離され、収入が途絶えることを恐れて検査を避ける地域があった。そこでナレス博士らは、トゥクトゥクで集落を回り、薬や検査キットを届けた。医療施設で待つのではなく、人々が暮らす場所へサービスを持ち込んだのである。

 同様の課題は、子宮頸がん検診にもあった。タイでは一定年齢以上の女性が無料で検診を受けられるが、仕事を休めない、病院が遠い、診察への抵抗がある、結果を知るのが怖いといった理由から受診率は低い。南部のムスリムコミュニティでは、男性医師への抵抗や家族の同意など、宗教的・文化的な背景も影響していた。

 そこでバンコクでは、女性従業員の多いワコールの工場に自己採取キットを導入し、病院へ行かなくても検査を受けられる仕組みを整えた。パッタニー県では、タイ郵便や地域の保健ボランティアと連携し、検体を無料で配送。地域で信頼される女性イスラム教徒の知事が、現地の言葉で検査方法と意義を説明した。

 成功の要因は、検査キットという技術だけではない。誰が説明すれば信頼されるのか、どうすれば恥ずかしさや不安を減らせるのか、生活の中で無理なく受診できるかまで設計したことにある。

 「問題解決は、最初から緻密な計画を立てることではなく、人々の感情や思考、社会的な制約を理解することから始まります」

 制度が存在していても、利用者がアクセスできなければ医療サービスとして機能しない。行動しない理由を本人の意識に求めるのではなく、行動を妨げている体験全体を見直す必要がある。

医療は「時計」ではなく「雲」である

 セッションの最後に、セリッチ教授は、課題を「時計」と「雲」の2種類に分ける考え方を示した。

 時計型の問題は、機械の故障のように、原因を特定して修理すれば解決できる。一方、雲型の問題は形が曖昧で、状況によって変化し、終わりがない。医療や公衆衛生の課題の多くは、この雲型に当たる。

 病院の混雑は、受付の位置だけを変えれば終わる問題ではない。患者の行動、医療スタッフの業務、予約制度、建物、ITシステムが相互に影響している。検診率の低さにも、仕事、収入、文化、宗教、家族、地域への信頼などが複雑に絡む。

 時計型の課題には、問題箇所を「直す」方法が有効だ。しかし雲型の課題には、長期的に関係を築きながら「ケアする」姿勢が必要になる。

 そのためには、一人の専門家だけで答えを出そうとしてはならない。患者、医療者、行政、地域、企業など、異なる立場の人々を当事者として巻き込み、共に解決策を探る必要がある。

 ヘルスケア体験のイノベーションは、新しい医療機器やデジタル技術だけから生まれるものではない。まず現場を観察し、人の行動や感情を理解し、本当の問題を見つけること。患者が迷わず、不安を減らし、必要な医療へたどり着ける環境をつくることも、医療を変える重要なイノベーションなのである。

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