バイオ医薬品を中心に世界的に創薬が急速に進む一方で、高額な研究開発費、長い研究開発期間、低い成功確率など、創薬研究に関して多くの課題が浮き彫りになっている日本の製薬業界。その課題に、これまでなかった視点で挑んでいるのが、日本でのAI創薬を支援する「Tokyo-1」プロジェクトである。AI創薬を進化させ、国際競争力を取り戻すきっかけになると期待されている。同プロジェクトにおける計算環境の構築などを担った三井情報のキーパーソンに、日経BP 総合研究所の小谷 卓也が、システム目線でのプロジェクトのねらい、将来像を聞いた。

三井情報株式会社
執行役員
先端テクノロジー管掌
イノベーション戦略推進責任者
内田 利文氏
―「Tokyo-1」プロジェクトが発足した経緯を聞かせてください。
内田Tokyo-1は、AI創薬を支援するために、計算環境と情報コミュニティを提供するプロジェクトです。三井情報、三井物産、ゼウレカ、そして国内製薬会社の間で、プロジェクトとしてスタートしたのが2022年の夏ごろです。議論を進める過程で、業界横断的な取り組みが不足していることが大きな課題として浮かびました。デジタル時代の今、プロジェクトのベースとしては「どのようなシステム基盤が必要か」が重要であり、その検討、提案、そして設計までを私たちが担当させていただきました。1年の構想期間を経て方向性が固まったころ、試験運用までに残されていた時間は約3カ月で、その先は時間との戦いでした。
―NVIDIAのGPUを活用したプライベート型生成AI基盤を構築したそうですが、苦労した点、工夫した点はどこにあるのでしょうか。
図1 「Tokyo-1」プロジェクトの概要
三井物産、三井情報、NVIDIAが資源、ナレッジを提供し、ゼウレカが運営する「Tokyo-1」は、創薬をはじめとするヘルスケア業界のイノベーションハブ構築を目指すプロジェクト
内田当初から「競争領域と非競争領域を明確に区分する」が大きなテーマでした。競争領域は、プロジェクトに参加する製薬会社個々に、完全に秘匿されたオンプレミスに近い形での提供が求められます。非競争領域はパブリッククラウドのイメージで、各製薬会社が共有できる機能を柔軟に提供し、情報交換のコミュニティも含めた環境が必要です(図1)。
単にGPUスパコン環境を貸し出すのではなく、いわば「オンプレとクラウドのいいとこ取り」が求められていました。競争領域に関しては、各テナント単位で完全に分離され、どのように運用しているかは私たちにも分からないようになっています。また、ストレージのデータは各テナント専用の暗号化キーを用いるなど、セキュリティーを徹底しました。計算リソースは、各社が常時使うもののほかに、大量に計算をしたい場合は動的にリソースを追加できるようにも設計しています。
―非競争領域の特徴も聞かせてください。

日経BP
総合研究所 リサーチユニット部長
SDGsラボ所長
小谷 卓也
内田各製薬会社間の自由な情報交換を促すとともに、テーマごとのワーキンググループもあり、コミュニティとして利用してもらっています。ほかにも、AI創薬を推進する機能の提供、大量のパブリックデータを高速ストレージ経由で利用できる環境など、利用価値の高い要素をそろえているのが特徴です。
苦労したのは、最先端のGPUを搭載するスパコン(NVIDIA DGX H100)を、ソフトウエアを含めて安定的に動かす仕組みづくりでした。生成AIや機械学習と、計算創薬のワークロードは異なるため、安定化は想像以上に大変でした。また、Tokyo-1プロジェクトの構想におけるセキュリティー要件に対応するリファレンスが当時なかったため、途中から独自で設計を行い、マルチベンダー構成で行く決断をしました。対応できる製品がないこともあり、Active Optical Cableなどはメーカーと交渉して、今回のプロジェクトに合わせて新たに開発してもらいました。
―今回のプライベートAI創薬基盤の構築に、御社が様々なプロジェクトで培ってきた経験、技術はどう生かされているのでしょうか。
内田3カ月という短期間で試験運用に間に合わせるところが高いハードルでした。当社は3年以上前から「サービスインフラの付加価値を継続的に高める」ための研究開発に取り組んでいます。クラウドアプリのマイクロサービス化は進んでいますが、インフラにも同じ概念を適用し、従来のように1つの大きなシステムとして設計するのではなく、機能単位で設計し、機能単位での自動化を前提としたマイクロサービスアーキテクチャーを適用しています。
従来型のデザイン手法だと、どれだけ短くしても半年以上はかかっていたところを、設計工程の簡素化で短縮できたのは、これまでの経験があってこそだと思います。こうした基盤は、新しい技術が生まれたらどんどんキャッチアップしないと、すぐ陳腐化して競争力を失ってしまうでしょう。SRE(Site Reliability Engineering)の概念を取り入れ、変化に柔軟に対応できる仕様にもしました。
―今回のAI創薬基盤は、複数の製薬会社が共有するマルチテナントであるところも大きな特徴です。そこで直面した課題と克服法について聞かせてください。
内田オンプレのように常時利用できるサーバーを提供した上で、柔軟な計算リソースを確保するために、クラウドのように時間単位でのサーバー貸し出しにも対応しています。セキュリティーを担保するために論理分割に加え、テナント個別にデータ暗号化キーを用意することで機密性を高めました(図2)。
図2 安全性と利便性の両立を目指したシステム構成
参加している製薬会社それぞれに、オンプレに近い環境で最新のGPUスパコンを専用利用できる専用テナントを用意。同時に、情報共有やコミュニティなど、参加他社と共有で利用できるテナントを用意し、マルチテナントとして運用。オンプレの安心感、クラウドの利便性を兼ね備えた設計になっている
セキュリティーに関しては、「人間は間違いを犯す」を前提に、最終的には人の介在なしで運用できる体制を目指しています。セキュリティーやデータ保護の観点ではサーバーを占有したくなる一方、必要に応じて自由にスケールアウトしたいという、矛盾するニーズもあります。ここにも柔軟に対応する必要がありました。
―Tokyo-1プロジェクトに参加する製薬会社は、新たに開発されたAI創薬基盤によってどのようなメリットが得られるのでしょうか。
内田用意された基盤をすぐ使える点が大きいと思います。パブリッククラウドでも、ジョブ管理の仕組みを入れたりすると、物理作業がないだけで予想以上に時間がかかります。オンプレだと、調達を含めて利用開始までに1年かかることもあります。AI創薬の世界はスピードが生命線ですから、すぐに使えることは機会を逃さないためにも重要な視点です。
品質の面でも、創薬の研究者がすぐに計算でき、ワークロードを投げられる環境を準備しています。また「Tokyo-1」の場合、高速の計算環境を日本国内に用意しているのも強調しておきたいポイントです。非競争領域のコミュニティも、情報や課題を共有しながら、お互いに刺激し合うという意味でメリットといえるでしょう。コミュニティには、AI創薬サービスを提供するゼウレカのメンバーが入り、コミュニケーションの橋渡し的な役割を果たしています。
―今回のプロジェクトを踏まえ、今後どのような技術領域に注力していかれるのでしょうか。
内田創薬に限らず、日本の研究開発の国際競争力が落ちていると指摘されています。原因は複合的なものですが、新しいことにチャレンジし、イノベーションを生み出す環境づくり、そして変化と進化への柔軟な対応力が必要ではないでしょうか。今後、新しいテクノロジーが次々に生み出される中で、研究者が試行錯誤し、失敗を恐れず仮説検証できる仕組み、環境づくりを行っていきたいと思います。
ワークロード種別の最適化、「NVIDIA GH200」など新しいアーキテクチャーへの対応、最適なマルチノードGPUクラスタネットワーク構築、マルチベンダー相互接続、省エネなど環境課題への対応など、取り込むべき技術、向き合うべき課題はたくさんあります。日本は「知の深化は得意だけれど探索は下手」ともいわれていますが、探索を推進し、イノベーションを生み出す場をつくり出していきたい。Tokyo-1プロジェクトがその1つのきっかけになると思います。
―それには新しい人材の獲得、育成が欠かせません。
内田おっしゃる通りです。当社も含め、日本の研究開発の領域は効率性、確実性に重きが置かれがちでしたが、これからは未知の世界に踏み込み、新しいことにどんどんチャレンジしていかなくてはいけません。そうした挑戦を楽しめる人材を求めたいですね。様々な考えや価値観を持つ人が集まり、議論する過程でイノベーションが生まれるはずです。
社内でも、今年度から新たにイノベーション推進部を設け、常識にとらわれない、未来志向の人材を育成するための組織変革に取り組み始めました。ニーズを形にするだけでなく、可能性の種であるシーズへの嗅覚を研ぎ澄まし、イノベーションにつなげる人材を育成することで、会社としても大きく成長できると思います。Tokyo-1プロジェクトは1つのモデルケースでもあり、興味を持った方にはぜひ当社の門を叩いてほしいですね。
―最後に今後の展望、思いを聞かせてください。
内田Tokyo-1を支えるプライベート型生成AI基盤は大きな可能性を秘めています。今後は医療、金融、製造、電力などの重要インフラを含むあらゆる領域に提供することで、多様な企業、組織における生成AI基盤の活用拡大を支援していくつもりです。そして、多くのお客様と一緒にイノベーションを起こし、当社が長期ビジョン(2030 Vision)に掲げる「未来社会の当たり前をつくる」を実現していきたいと思います。