新型コロナウイルスの影響で、テレワークや遠隔コミュニケーションが普及しているが、海外に生産ラインを遠隔支援で立ち上げるとなると難易度は格段に高くなる。2020年6月、自動車部品を製造する武蔵精密工業が、Mixed Reality(MR)を活用し、遠隔支援だけでメキシコ合衆国に新たな生産ラインを立ち上げた。同社はこのノウハウを生かし、インドネシア共和国、ハンガリー、カナダへと、次々に同じ手法で生産ラインの構築を進めている。ものづくり大国日本のお家芸であり、何よりも現場・現物を重んじてきた生産技術の分野において、いよいよMRの活用が始まった。MRの活用は新たな常識(ニューノーマル)となるのか。

海外渡航禁止の状況でいかに計画を進めるか

武蔵精密工業株式会社
PT事業部 PT Gear 2グループ
グループマネージャー
衞藤 明頼 氏

2020年3月末、武蔵精密工業は事業継続計画(BCP)の一環として、全従業員に海外渡航禁止の通達を出した。新型コロナウイルスの影響を受けてのことだ。国内出張もできない。対面による打ち合わせも、所属長の許可がない限り禁止となった。

「とはいえ、メキシコの新しい生産ラインの立ち上げだけは、計画通りに進めなければなりませんでした」(武蔵精密工業PT事業部PT Gear 2グループ グループマネージャーの衞藤明頼氏)。

同社は1年以上前からメキシコの生産拠点内に、自動車向けATトランスミッションのギア部品を生産する新しいラインの立ち上げを計画してきた。人が行き来できなくても、この計画は進めなければならない。通常、新しい生産ラインを立ち上げる場合、同社の技術者が設備サプライヤーとともに現地入りし、現地スタッフと協力して設備を設置、調整、検査、テストする。設備の操作や検査方法などを指導し、現地スタッフだけで運用できる体制を作る。しかし、当面は日本側の担当者は現地に行くことができない。日本に居ながら生産ラインを立ち上げるための方法を検討することになった。

迅速に導入・活用できる
「Microsoft HoloLens 2」を選択

新たに生産する部品の納入先はメキシコにある。このため、同社はどうしても現地生産にこだわる必要があった。すなわち、同社の技術者や設備サプライヤーは、日本に居ながらにして、メキシコの生産ラインを立ち上げなければならなかった。生産技術の分野で豊富な経験を持つ衞藤氏だが、こんな話は前代未聞のことだ。「生産技術の基本は三現主義(現場、現物、現実)です。それができないというのですから、大変なことになったと思いました」(衞藤氏)。

武蔵精密工業株式会社
ITソリューション部
グローバルインフラ&サービスグループ
グループマネージャー
加藤 宏好 氏

日本から現地の状況をつぶさに把握し、詳細なコミュニケーションを取れる方法はないものか。衞藤氏らはIT部門とともに検討し、Mixed Reality(MR)を試みることにした。MRに関する様々なツールや環境を検討し、最終的に HoloLens 2 の採用を決めた。

「HoloLens 2 が持つデバイスとしての優位性はもちろんですが、当時、本社を中心に Microsoft Office 365 を導入していたため、迅速に導入できるという点でもベストと判断しました」(ITソリューション部グローバルインフラ&サービスグループ グループマネージャーの加藤宏好氏)。

すでに Office 365 が浸透している環境ならば、HoloLens 2 の導入は容易だ。実際、同社は検討開始から活用開始までわずか2か月という極めて短期間で実現した。

「HoloLens 2 越し」に日本から現場を確認

同社は4月中にMRを検討し、HoloLens 2 の導入を決めた。5月の連休明けに HoloLens 2 の現物が届き、日本マイクロソフトから遠隔で技術支援を受ける。5月末には機材をメキシコへ送った。機材がメキシコへ向かっている間に、並行してセットアップを進める。Office 365 との連携は容易で、「Microsoft Dynamics 365 Remote Assist」のライセンスを追加し、HoloLens 2 でログインするだけですぐに使えるようになった。2週間をかけて「Microsoft Teams」との接続テストを実施した。「HoloLens 2 に決めて正解でした。他のデバイスを導入するより、はるかに早かったと思います」(加藤氏)。

HoloLens 2 越しに送られる映像を基に、現地スタッフへ指示出しを行う

日本マイクロソフトは Teams 内に専用チャネルを作り、遠隔でサポートを続けたという。「具体的な画面を共有しながら、設定の勘どころやセキュリティ構築などの面でサポートを受けました」(加藤氏)。

6月に入ると、メキシコ側で設備の設置と調整が始まった。切削加工機やバリ取り用の設備などを含め、合計8台ほどの加工機と検査装置を設置する。当時、新型コロナウイルスの影響で、現地工場もシャットダウンされていた。このため、現場に入れる人数は限られる。

実作業を行う外国人技術者が HoloLens 2 を装着し、そのすぐ横に通訳がついた。出社が許されなかった現地の日本人駐在員は、メキシコの自宅から Teams で参加した。日本にいる技術者と設備サプライヤーの専門家らは、遠隔地から HoloLens 2 越しに現地の状況を確認し、作業の指示を出した。「メキシコの現地スタッフが装着した HoloLens 2 を通し、日本にいる自分たちは、まるで現場にいるかのように状況を確認できました」(衞藤氏)。

時差や細かいニュアンスの伝達に苦労

日本のスタッフが現地に行く従来の方法と比較して、遠隔支援による立ち上げは、約2倍の期間を要したという。

最大の原因は、時差だ。

日本とメキシコには14時間の時差がある。現地入りすれば1日8時間ほど作業が可能になるが、日本から参加するとなると、時差の影響をもろに受ける。日本とメキシコが共同で作業できるのは、1日あたりせいぜい4~5時間。従来の半分程度になってしまう。このため、作業期間はどうしても伸びた。

また、現地で直接指導すれば、簡単な英語とジェスチャーで伝わるような内容も、遠隔支援の場合はなるべく言語化し、通訳を介して伝えなければならない。細かいニュアンスを言葉にするのに苦労した。込み入ったやり取りになると、メキシコの自宅から参加した日本人駐在員が間に入り、英語でフォローする場面も見られた。

遠隔支援による生産ラインの立ち上げは、現地の外国人スタッフにとっても初めての挑戦だった。負担もそれなりに大きかったと思われるが、反発や抵抗はなかったのだろうか。

「それが、意外なくらいありませんでした」(衞藤氏)。

現地の人たちは基本的に新しいものが好きで、HoloLens 2 を見せると、大いに興味を示したという。自分から HoloLens 2 に触れ、積極的に操作方法を覚えてくれた。

また、ITの環境整備を担当した加藤氏は、ネットワークのインフラ構築に苦労したと話す。「ただでさえ、停電や洪水が頻発する地域です。新しいラインなので、ネットワークの環境や性能、社内ネットワークの優先制御が必要になるかどうかなど、HoloLens 2 が十分に機能できる環境を作るため、何度も検証する必要がありました」(加藤氏)。

遠隔支援による立ち上げは今後も続々

メキシコで初めて遠隔支援による立ち上げを成功させた後、7月中旬から8月中旬にかけてインドネシア、8月から9月末はハンガリー、10月からはカナダと、同社は次々に生産ラインを立ち上げている。すべて HoloLens 2 による遠隔支援だ。実は、メキシコ、インドネシア、ハンガリーの現地スタッフは、コロナ禍が本格化する前に1度来日し、設置予定の設備をチェックすることができていた。しかし、カナダの現場からは、それも含めて遠隔になる。今度は日本側のスタッフが HoloLens 2 を装着し、カナダの現地スタッフに設置予定の設備を見せる。

「当初、遠隔支援による立ち上げは難しいと考えていましたが、思ったよりスムーズに進んでいます。作業にも慣れ、ノウハウが蓄積されつつあります」(衞藤氏)。

HoloLens 2 のメニューは多言語対応なので、現地の言語に簡単に切り換えて使える。また、操作や指示をビジュアルに出せるインタフェースもある。そうした点が、スムーズな活用に貢献した。HoloLens 2 の効果を知った海外スタッフの間では、独自に HoloLens 2 を導入する動きが広がっているという。問題が起きたとき、すぐに日本とつないでベテラン技術者の支援を受けるためだ。人が行き来するより早い。

それだけではない。出張がなくなったことによる効果は予想以上に大きかったという。今回のメキシコ工場のライン立ち上げだけでも、移動費用で約220万円の削減、時間換算で約264時間の削減を果たした。年間で累積される移動ロスを考えると、HoloLens 2 導入は予期せぬ果実をもたらすことになった。

HoloLens 2 の導入により、移動費用約220万円、時間換算で約264時間の削減効果をもたらした

MRが現地スタッフの理解や自信を向上

衞藤氏は、今回の経験で興味深いことに気づいた。日本のスタッフが現地に行けなくなったことで、かえって現地スタッフの自信が深まっているというのだ。

「日本からベテラン技術者が来て、あっという間に設備を立ち上げて帰国してしまう。その後、いざ現地スタッフだけで動かそうとすると、よくわからない点が出てくる。かつてはそんな場面も見られました。遠隔支援の場合、日本側ができるのは指示だけです。現地スタッフの手で100%やり遂げてもらわねばなりません。大変ではありますが、現地スタッフの深い理解と自信につながっているように感じます」(衞藤氏)。

また、これまでは主に HoloLens 2 と Teams を利用してきたが、今後は「Dynamics 365 Guides」を活用したいという。「設備を日本から出荷する前に、操作方法や点検表の扱い方などの説明を Dynamics 365 Guides で準備し、現地でのトレーニングや作業スキルの標準化に生かしたいと思います」(衞藤氏)。

HoloLens 2 によるコミュニケーションは一過性のものではなく、今後、さらに広がると同社では考えている。MRの活用をニューノーマルととらえ、新たな競争力につなげていきたい考えだ。

※今回のインタビューは Microsoft Teams で実施(写真撮影だけ現地にて)。

「ユニークで行こう」という会社スローガンを基に、今後も前向きなチャレンジを進めていくという。
(写真左側 武蔵精密工業株式会社 代表取締役社長・社長執行役員 大塚 浩史 氏)

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