イノベーションを創出し、いかに新しいビジネスモデルで成長戦略を描くか――。これは多くの企業が直面する重要なテーマだ。しかし、言葉で表現するほど容易なことではない。過去の成功体験を捨て、自社の組織や意識をトップから現場に至るまで変革し、新しい挑戦を行う必要があるからだ。実はERPソフトの巨人といわれたSAPにも、悪戦苦闘の歴史がある。現在は、パッケージソフト偏重だったビジネスモデルから脱却したが、10年以上前に始まった変革は、今なお続いているというSAPではどのような哲学で変革を進め、具体的にどのような変革を敢行したのか。SAPの経営幹部と、経営学者の宇田川 元一氏がその“深層”を語り合った。
――多くの日本企業が変革や創造の重要性を認識している一方、グローバルで比較するとその取り組みはなかなか進んでいないといわれています。その理由をどのように見ていますか。
マリオット:私はSAPのアジア・パシフィック市場の責任者の一人として、長く日本市場に関わってきました。日本企業の優れた点もサポートが必要な点もよく分かっているつもりです。
まず優れた点は、品質への投資を惜しまないこと。製品や顧客体験において最高品質の提供を目指す。10年、20年という長期的な計画を立てて投資を継続していきます。
しかし、市場は激しく変化しています。長期的なことばかり見ていると、デジタル化のトレンドに乗り遅れ、短期的なチャンスを見失う恐れがあります。長期的なチャレンジだけでなく、変化に機敏に反応する短期的な視点でのチャレンジも必要ではないでしょうか。さらに急激にグローバル化している世界の状況に対して、他国がグローバライゼーションによりメリットを享受している一方で、日本は他国が享受できているスピードではグローバル化のメリットを十分に享受できていないと感じます。
鈴木:日本のGDPは約500兆円で、1990年代半ばからほぼ横ばいの状況です。中国は2010年に日本を追い抜き、現在は日本の約4倍の2000兆円超。アメリカは3000兆円超で15年前から倍以上成長しています。日本だけが成長できずにいるのです。私も含め、日本の経営者の多くが大変な危機感を抱いています。
なぜ日本は成長できないのでしょうか。原因の1つに、失敗を恐れる文化が大きく影響していると思います。日本企業では失敗が大きなマイナスになる。だから失敗はしたくない。そして失敗しないためにチャレンジもしないというわけです。このネガティブな文化を壊さなければ、企業変革どころか日本という国の将来も危うくなるのではないでしょうか。
宇田川:1990年代半ばのIT革命以降の経営戦略論や組織論のテーマは一度成功した企業が変革に伴って生じる「組織のジレンマとパラドックス」をどう乗り越えるかということでした。お二人の話を伺って感じたのは、実はこれがまだ続いているということ。
企業組織では市場での成功を通じて、組織の資源配分プロセスや人事戦略など、様々なことが制度化されていきます。しかし、ビジネス環境や社会は常に変化し、新しいテクノロジーも次々登場してきます。当然、変革が必要になるのですが、制度化されたものは簡単には変えられません。その結果、変えたくても変えられないといったジレンマに直面する。皮肉なことに、過去の成功体験が変革を阻害するパラドックスを生み出し、ジレンマから抜け出せなくなっているのです。
このジレンマとパラドックスをどうやって脱却するか。今の日本企業と同様の課題を抱えていたSAPはグローバルで抜本的な経営改革を実現しました。私自身も企業変革の研究テーマとして、SAPの取り組みには興味を抱いています。なぜ変革に取り組み、何を変えようと考えたのか。改めて今日は話を聞かせてください。
マリオット:私は14年前にSAPに入社しましたが、その頃はちょうどSAPがビジネスポートフォリオの多様化を始めた時期でした。SAPはERPの領域で多くの成果をあげていましたし、現在でもERPの領域では多くの企業に寄与しています。しかし、SAPは持続的な成長を継続していくためには、ビジネスポートフォリオの多様化が必須であると理解していました。製品の多様化を実現することで、企業の人材の生産性向上や業務の自動化、そしてイノベーションの醸成を加速し、企業変革の支援を目指したのです。そして多様な業務領域や業界をカバーする多様な製品群を買収などの方策により拡張していきました。同時にSAPが貢献できる市場規模の拡大も目指しました。現在そして今後の焦点は、お客様に確実にそのメリットをシームレスにエンドトゥエンドで享受いただくようこれらの買収した製品群と既存のSAP製品を統合していくことです。SAPは製品群を統合してよりクオリティの高いソリューションをお客様に提供するために今後数年間研究・開発に多くの投資を行っていきます。製品のクオリティに非常にこだわる日本のお客様にとっては特に意義のある取り組みであると思います。
鈴木:以前のSAPはエンジニアの権勢が強く「良い製品を作れば売れる」という考え方を持っていました。その点は日本の製造業と似ているかもしれません。しかし、製品はあくまで手段です。お客様が最終的に求めているのは、自らの変革であり、KPIの達成であり、競争優位の獲得です。ERPは本来そのための武器の1つだったはず。自分たちは何をしたくてERPを展開してきたのか。その理由をもう一度解きほぐしながら、新たな変革の方向性を見出していきました。
例えば、以前の組織は、営業は営業活動に専念し、導入はコンサルティング部隊、運用フェーズに入ったら保守部隊というように分業制で、部門間に見えない壁のようなものがありました。そこでお客様対応にあたる組織を1つに集約し、その中で互いが連携する体制に変革を進めたのです。今ではカスタマーサクセスについてチームで常に共有し、自分の役割を考えて行動する文化が定着しています。
――変革に向け、組織全体の意識改革にも取り組んだと伺っています。具体的にどのような取り組みを行ったのですか。例えばデザイン思考という手法を活用したと伺っていますが。
マリオット:デザイン思考は、たしかに1つの例ですね。デザイン思考の手法を通じて、社員のモチベーションを高め、お客様企業に対しては、その企業のお客様へより良い結果を届けられるようなアイデアを生み出す支援をしてきました。デザイン思考により、協働によるイノベーティブなアイデアを生み出すマインドセットを醸成することができました。ただ、ここではデザイン思考より一歩前に戻って考えてみたいと思います。最も重要なものは社員であり、人材です。人事戦略そして人材育成の戦略を正しく実施すれば、社員のモチベーションが高まり、それが業績やイノベーションという結果を引き出してくれるのです。私が統括しているアジア太平洋日本地域は現在世界全体のGDPの約40%を占めていますが、おそらく2030年までには50%まで成長してくるでしょう。日本は高齢化していますが、アジアの大半の国々は若い労働人口が多くを占めています。若手の育成は特に重要です。
宇田川:人事戦略、人材戦略を重要視している企業は多くありますが、単に人の能力開発をするだけでは変革を促すことはできません。具体的にどのような取り組みをされているのですか?
マリオット:私は人材戦略のもと3つの柱を掲げています。第1にリーダーシップ。社員一人ひとりが単に自分の目標を達成することに尽力するだけでなく、自分のパーパスや信条に基づいて、やる気と信念を持って取り組むようなカルチャーを醸成することです。そのためには社員が常に成長し続けていくことが不可欠です。そして成長するためには、社員が自分の日々の業務の範囲を超えて、自信はないかもしれませんが、未経験の領域、現在の自分より背伸びした領域にチャレンジしていくことが重要です。このチャレンジこそがリーダーシップマインドだと私は思っています。
第2にインクルージョン。アジア地域はきわめて多様ですが、これこそが私たちの強みだと思います。多様な文化や考え方の社員を受け入れ、共に働くことのできるカルチャーを醸成することが成功につながるのです。そして社員個々人が持つ人生のパーパスや信条を尊重し、そのパーパスを企業の目的とつなげる支援をすることで、ポジティブな企業カルチャーを築いていくことを目指しています。SAPが社員個々人のパーパスを尊重し、そのパーパスの実現を支援することが重要だと思っています。役職にかかわらずフラットにだれもが自分の意見を表明できる心理的に安全な雰囲気をつくっていくことも非常に大切です。
第3に常に学び、成長を志向すること。私は51歳になりましたが、半世紀生きてきて気付いたことがあります。それは、今でも知らないことがたくさんあるということ。成長していくためには、謙虚な気持ちで、学び続けたいという気持ちを持つことが大切ではないでしょうか。
これら3つの柱に基づいた企業カルチャーを醸成すれば、大きな山を動かす力になるのです。企業が成長し続けていくためには、戦略や技術も重要ですが、最も大切なものは社員のモチベーションを向上させる企業カルチャーです。「企業文化は戦略を朝食に食べる」という古い格言があります。つまり正しい企業文化が醸成されなければ、どんな素晴らしい戦略も実現はできないということです。