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経営課題解決セミナー

中堅・中小企業のDX
 どこから手を付ける?

  • 日時2021年11月11日(木)13:00~16:30
  • 主催日経トップリーダー
  • 協賛アマゾンジャパン、コンカー、ソーラーウインズ・ジャパン(50音順)

中堅・中小企業にとってITを活用して生産性向上を目指すことは経営の最重要課題だ。
特に、ニューノーマルな働き方の1つになった「テレワーク」をはじめとした「働き方改革」への取り組みは、中小企業といえども待ったなしの状況だ。では、実際にどこから手を付ければよいのだろうか――。「中堅・中小企業のためのDX(デジタル変革)」をテーマに、現場の初歩的な疑問解決へのヒントを経営者と有識者に聞いた。

特別講演

歴史に学ぶ変革期の企業経営
徳川家康と生涯無敗の立花宗茂に学ぶ

歴史上の出来事、歴史上の人物の考え方は、企業経営を進めるうえで大いに参考になる。しかし、歴史小説や大河ドラマを通じて世の中に伝わる内容には、真実からかけ離れていたり、結果論に終始したものが少なくない。歴史に学ぶ際に大切なのは、真実に基づくことであり、結果よりもプロセスを重要視することだ。そうした視点を持つことによって、はじめて歴史が企業経営に役立つ。

加来 耕三 氏
歴史家・作家
加来 耕三

1958年大阪市生まれ。1981年3月に奈良大学文学部史学科を卒業。学究生活を経て、現在は、大学・企業の講師をつとめながら、歴史家・作家として著作活動を行っている。近刊に『歴史の失敗学』、『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』(ともに、日経BP)。

 歴史は真実に基づいて学ぶことが重要です。例えば、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の句に代表されるように、徳川家康は慎重で忍耐深い人だというイメージがありますが、本当にそうだったのでしょうか。

 実は、歴史の文献を読むと、家康はカッとしやすい性格だと分かります。むしろ、「殺してしまえホトトギス」に近い性格だったのです。それは血筋によるもののようで、家康の父や祖父もその性格が災いして、20代半ばで家臣に殺されています。家康の長男・信康は信長に切腹をさせられていますが、後述のように、その遠因は家臣を多数の前で罵倒したことにありました。

 『東照神君遺訓』(東照公御遺訓)の冒頭には「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」とあり、これをもって家康の思慮深い性格を表すもの、と思い込んでいる方もいます。しかし、この遺訓は明治になってから、家康のイメージを想像して書かれたものです。ここに真実の家康はいません。

 ところが、多くの人は作られた古狸のような家康を、イメージして歴史を勉強されたつもりになっているのです。なんとなく知っていることは、何も知らないことよりも罪深い。何も知らない人は一から勉強しますが、なんとなく物事を認識していると錯覚している人は、改めて調べようとしないからです。

関ヶ原の戦いにおける家康のリスク計算

 最もよくないのは、結果論から歴史を組み上げることです。

 関ヶ原の戦いを例に取りますと、家康が半日で勝ったという結果しか、覚えていない人が多いようです。また、家康の息子の秀忠が世紀の決戦に遅れたことで、この二代目が無能であるかのように難じます。しかし、歴史学で大切なのはプロセスです。結果を知るだけでプロセスを考えないのは、役に立たないだけでなく、むしろ有害なのです。

 そもそも関ヶ原の戦いの前に、半日で決着がつくと考えた人が一人でもいたでしょうか。

 西軍の主将・石田三成は、両軍を20日間硬直状態に置き、そこに秀吉の子・秀頼を迎え入れる作戦を立てていました。九州の黒田官兵衛は、勝った方と戦うために牢人を集めています。まさか関ヶ原の戦いが、一発勝負で終わるとは誰も考えていなかったのです。よく考えてみてください。経営者の方々が決断を下すときに、成功することだけを考えるでしょうか。そんなわけはありません。必ずリスク計算をして、失敗した場合の想定をするはずです。

 当然のことながら、家康も戦いの前に様々なケースを想定していました。例えば、東軍を構成する東海道沿道の武将に裏切り者が出たらどうするか。だからこそ、秀忠率いる3万8000の徳川主力軍が、中山道に無傷の状態で控えていることは意味があったのです。秀忠は、単に真田父子に引っかかって、関ヶ原に遅れたわけではありません。それでよい、と家康は判断したわけです。あの時代、関ヶ原と関東をつなぐ街通は、東海道と中山道しかありませんでした。

 関ヶ原で勝負がつかなくても、この主力軍を待って、第二次関ヶ原の戦いを行えばいい。

 もし完敗したら、家康を守って中山道で江戸に帰り、関東に絶対防衛圏を確立するのが彼らの作戦だったはずです。

 ところが、歴史小説や大河ドラマでは、勝つことだけを考えた家康が、秀忠を待たずに関ヶ原に突っ込んで、大勝利を得たという話を創ります。それでは歴史を学んだことにはなりません。創作されたイメージをいくら追いかけても、本質を学ぶことがなければ、歴史からヒントを得ることはできないのです。

家康が持っていたリーダーの条件とは

 ここで、リーダーに求められる能力について考えてみましょう。リーダーの能力として最も重要なものとして考えられるものに、大局観=先見性があります。けれども家康は、信長や秀吉に比べて、この大切なものを持ち合わせていませんでした。仮に信長の大局観=先見性を100とすると、それをまねた秀吉は10程度。家康はほぼ、ゼロといってよいでしょう。

 ところが、信長の政権は“天下布武”の途中までを認めても一代で終わり、秀吉は息子の秀頼を足しても二代。比べて大局観=先見性ゼロの家康は、15人の将軍を輩出して、265年の泰平の世を生み出しています。

 では、家康だけが持っていたリーダーシップとは、いかなるものであったのでしょうか。

 その一端は、長男・信康が信長によって切腹させられたエピソードからうかがえます。

 事の発端は信長の娘である妻との夫婦げんかであり、信康は武田家との内通を疑われました。信長に難詰された徳川ナンバー2の酒井忠次は、かつて信康に罵倒されたことを思い出し、内通を認める発言をしたことで、家康の進退は窮まります。信長は執念深い人ですから、家康はこのままでは自分も家も一巻の終わりと悟り、泣きの涙で後継者の信康を切腹させたのです。このことは家康にとって、生涯の痛恨事となりました。その証拠に、関ヶ原に向かう家康が、信康を思い出して泣いたという記録が残っています。

 そして、その家康が天下を取りました。もし私が家康ならば、酒井忠次の一族郎党をことごとく討ち、家を潰したことでしょう。ところが、史実はそうでないどころか、関ヶ原の戦いの4年前にこの世を去った忠次を、家康は徳川四天王の筆頭に持ってくるように大切にしています。

 それを可能にしたのは、家康の「寛容」だと私は考えます。ただしこれは、絶望の中における寛容さです。能力に欠けるという自覚を持ち、“軒下貸して母屋とられる覚悟”で大局観=先見性を持つ人物を使うということです。それができたからこそ、部下は家康に付き従い、家康は天下を取れたのでしょう。

 ひるがえって、現代でも大局観=先見性があれば、寛容さゼロの経営者でも部下はついてくるかもしれません。しかし、現代は変化が速く、先を見通すのは困難です。この速い流れについていく自信がないならば、家康が用いた寛容さを発揮するのも一つの方法かもしれません。

コロナの時代に立花宗茂に学ぶこと

加来 耕三 氏

リーダーの重要な条件に大局観や先見性がありますが、先が見通せない現代においては、家康が用いた寛容さを発揮することも一つの方法かもしれません

 こうした家康が苦手とした武将に、筑後国柳河(やながわ)藩の初代藩主だった立花宗茂がいます。宗茂は、生涯一度も戦いで負けたことがない、という猛者でした。島津が北上して全九州を取ろうとしたとき、5万を超える軍勢に対して4000弱で立ち向かい、立花城を守り抜き、武功を挙げたのを皮切りに、連戦連勝が始まります。

 その秘訣は、徹底した事前調査と妥協なき敵状況の分析にあり、必ず次善の策、第三、第四といった策をどこまでも用意していたことにありました。

 どんな状況下でも、逆襲するポイントを必ず確保するのが宗茂という人物だったのです。

 彼は関ヶ原の戦いにおいては、大津城を攻めていたために本戦には参加していません。参加することなく、味方の西軍が負けてしまいました。自身は一度も負けずにいたのに、味方に足を引っ張られた形で、家康に改易処分を受けます。

 興味深いのは、宗茂が家康はかならず自分を必要とするはずだ、との信念を持っていたことです。家康の出方を冷静に見て、命を取られる心配がないと分かると、彼は柳河城を開城して牢人生活を始めます。そして、家康が自分を捨ておくことがないと信じて、加賀藩からの10万石の家老になる誘いも断ります。

 その後、徳川幕府から5000石での家臣の誘いがくると、彼は自分の将来にとってプラスになると判断して、これを受けます。やがて1万石の大名になり、さらに加増され、54歳にして20年ぶりに柳河の藩主に返り咲くことになりました。関ヶ原の戦いで負けた西軍の武将で、同じ土地に戻ることができた大名は、立花宗茂のみでした。

 彼の生き方を見ていると、コロナ禍の時代における、経営者の戦い方が見えてきます。もうコロナ前の時代に戻ることはあり得ません。たとえ経済状態が回復しても、その間に私たちは年を取ってしまいます。悔やむべきは、私たちがみなコロナに対して油断をしていたことです。感染症や天変地異が起きたとき、そこから生き残る工夫をしてきませんでした。だからといって、茫然自失として立ち尽くすわけにはいかないのです。

 では宗茂はどうだったかといえば、関ヶ原の敗戦と改易という現実に遭遇して、大変な状況に陥りましたが、次の瞬間には素早く立ち直って逆襲に転じています。

 徳川の世の中で自分がどうあるべきかを冷静に考えて、それまでの実績に自信を持ち、自己の判断に確信を持って、宗茂は行動したのです。これが、コロナ禍の時代における戦い方である、と私は思います。

 徳川家康の寛容さ、立花宗茂の油断なく生き残る工夫は、経営者にとって学ぶべき点が多いのではないでしょうか。

歴史を学ぶときに重要な3つのポイント

 最後に、経営者が歴史を学ぶときに重要なことを三つのポイントを伝えたいと思います。一つ目は歴史を疑ってかかることです。結果から逆算しても、歴史は学べません。本当かどうかを考えるにはまず立ち止まって、スタートの時点からプロセスを順次考えていくことが重要です。

 二つ目は、歴史上の人物を飛躍して捉えてはなりません。人間の性格は変わりませんし、いきなり飛躍もしません。誰も相手にしなかった若者が、ある日突然、一世を風靡することはないのです。三つ目は、数字を重視することです。数字が嘘を言った歴史はありません。数字を重視したものの考え方を、徹底してください。

 この三点を踏まえて歴史上の人物に学ぼうとするならば、そのスタートは歴史小説でも構いません。歴史上には無数のケーススタディが溢れていますので、ぜひ現実の経営に変換して活用していただければと思います。

 今まさに世界は変革期にある、あるいは未曾有の危機に直面しているといえるでしょう。しかし昭和ひとつを振り返っても、金融恐慌、世界恐慌、アジア太平洋戦争の敗戦、バブルの崩壊、リーマンショックなど、それこそ未曾有の危機ばかりでした。

 経営者にとって、今までにないショックを受けたと思うときは、常に未曾有なのです。そこをどうかわきまえつつ、歴史に学んでいただければと願っています。

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