AIを「業務効率化」から「戦略の中核」へシフト

創薬の革新に挑む中外製薬のAI戦略に迫る

AIの活用が業務効率化にとどまる企業が多い中、事業の中核である戦略領域への活用を進める企業がある。製薬大手の中外製薬だ。創薬に関する属人化した暗黙知を組織の資産として蓄積・活用する取り組みを始めた。生成AIエージェントの開発を手掛けるGenerativeXがこれを伴走支援している。一方でAIが高度な判断を支援するようになると、新たな問いが浮かぶ。AI時代に、人はどこで価値を発揮するのか。意欲的な挑戦の"現在地"と中外製薬が目指す"AIと人の未来"に迫る。

AIを日常業務に組み込み、イノベーションにつなげる

中外製薬株式会社 トランスレーショナルリサーチ本部 医科学薬理部長 寺尾 公男氏

中外製薬株式会社
トランスレーショナルリサーチ本部
医科学薬理部長

寺尾 公男氏

 独自の技術とサイエンスを強みとする研究開発型の製薬企業として知られる中外製薬。ロシュ社との戦略的アライアンスを軸に、革新的な医薬品を数多く生み出している。特に抗体医薬品は世界トップクラスの技術力を誇る。

 抗体医薬品とは、病気の原因となる細菌やウイルスに対する免疫反応でつくられる「抗体」を利用した医薬品のこと。がん細胞などの細胞表面の目印となる抗原をピンポイントで狙い撃ちするため、高い治療効果と副作用の軽減が期待できる。「革新的な抗体エンジニアリング技術を継続的に進化させ、患者さん・社会にとって価値の高い医薬品開発に取り組んでいます」と同社の寺尾 公男氏は述べる。

 さらなる成長を目指し、同社は2030年に向けた10年間の成長戦略「TOP I 2030」を推進する。"TOP"には「日本ではなく世界のトップイノベーター」を目指す思いが込められているという。"I"には「イノベーター」に加え、グループ社員一人ひとりが主役を意味する「私=I」という2つの意味がある。2030年には、2021年からの10年間でR&Dアウトプットを2倍に拡大し、革新的な自社グローバル品の毎年上市を目指す。

 この実現に向けキードライバーとなっているのがDXである。「CHUGAI DIGITAL VISION 2030」を策定し、デジタル技術によるビジネス革新を推進。DX銘柄にも5年連続で選出された。

 その一環として力を入れているのが、AI活用だ。全社AI戦略「Chugai AI Strategy」では、AIによる業務変革を通じて2030年までに2022年比で30%の生産性向上を目指している。その実現に向け、全社員が日常業務でAIを活用する「AI Everyday」、バリューチェーン全体の生産性向上を目指す「AI Everywhere」、人だけでは成し得ないイノベーション創出を目指す「AI Transformation」の3本柱で取り組みを進めている。

「戦略支援型AI基盤」で本業の価値創出を目指す

中外製薬株式会社 デジタルトランスフォーメーションユニット デジタル戦略企画部 部長 金谷 和充氏

中外製薬株式会社
デジタルトランスフォーメーションユニット
デジタル戦略企画部 部長

金谷 和充氏

 中外製薬のAI戦略は業務の効率化だけにとどまらない。それが「戦略支援型AI基盤」である。その代表例として挙げられるのが、医薬品開発に欠かせない「TPP(ターゲット・プロダクト・プロファイル)」へのAI活用だ。

 TPPとは新薬の開発戦略を定めた文書のこと。開発中の医薬品の適応症、投与経路、用量、有効性、安全性、薬物動態、市場競争力などを包含し、規制当局の承認申請やマーケティング戦略の基盤となる。この狙いを寺尾氏は次のように述べる。

 「TPPの作成には膨大な論文や臨床・治験の情報を読み解く作業が必要ですが、人が何週間もかかる作業をAIなら一晩でやってくれる。膨大な情報の中から、必要となる正しい情報を素早く抽出することで、医薬品の開発スピードの大幅な向上が見込めます」

 このTPPへのAI活用を支援するのが、GenerativeXだ。「会社にはそれぞれ強みとなるコアバリューがあります。それを増幅させることで、社会への提供価値がより大きなものになる。特に医薬品開発は社会的意義が大きい。その取り組みに共にチャレンジできることは光栄です」とGenerativeXの上田 雄登氏は話す。

 あるイベントでGenerativeXのAIソリューションを知り、寺尾氏がTPP作成支援の構想を相談したことから話が進んだ。「こちらがやりたいことを伝えると、翌週にはその機能が実装されて出てくる。1週間単位で試作と改善を繰り返すそのスピード感に惹かれました。さらに多くのデータを学習させれば、人の思考回路を代替できるのではないかとGenerativeXのAIに大きな可能性を感じました」と寺尾氏は振り返る。

 こうしてTPP作成支援に向けた両社の共創がスタートした。

ベテランの暗黙知を取り込み"中外らしさ"を発揮する

株式会社GenerativeX 取締役CAIO 上田 雄登氏

株式会社GenerativeX
取締役CAIO

上田 雄登氏

 製薬業界の専門知識を学習させ、膨大な資料の中から必要な情報を集めて文書化する。TPP作成には欠かせない作業だが、単に公開情報を学習させても"中外らしさ"は生まれない。

 中外製薬の創薬の特徴は、特定の疾患領域から出発するのではなく、独自の技術を起点に創薬を進める「技術ドリブン」にある。なかでも、同社の強みである抗体エンジニアリングを活用し、特定の標的分子に結合する能力を持つリード抗体を見つけ、その抗体を最適化し、効能が期待できる疾患を探求。その疾患に対して有効性、安全性、薬物動態などの知見をもとに議論を重ねていく。これにより、標的分子が同じ既存薬に対して優位性を持つ医薬品や、新規性・有用性が高い独創的な医薬品開発が可能になるわけだ。

 1つの医薬品を開発できるまでに10年かかることも珍しくないという。そのプロセスは試行錯誤の連続で、中には失敗もある。それを乗り越え、開発を前に進めた経験や知見は大きな財産だ。しかし、それは暗黙知としてベテラン社員の頭の中にある。特に失敗の知見は外部に残りにくく、個人と共に失われやすい。

 「その暗黙知こそが会社の財産であって、これをAIに取り込むことで、業界の専門知識や医学論文からは得られない"中外らしさ"を発揮できると考えました。TPP文書のクオリティも上がるし、過去の成功体験に秘められた思い、戦略や人脈、体制などのやり方を、いまのプロジェクトにインプットしていける。そうすれば同じ失敗を繰り返さず、勝ち目のある戦略に特化して、製品価値が大きくなるとともにプロジェクトの成功率を上げることができるでしょう」と寺尾氏は期待を込める。

 当初は寺尾氏がベテラン社員にヒアリングした内容をAIに学習させていったが、開発の過程でAIが直接ヒアリングしてデータを学習するように変えていった。最初は質問の仕方もぎこちなかったが、複数のAIを組み合わせ、工夫を重ねることで、ヒアリングレベルが向上していったという。

 「病気を治したいという患者さんのために、より良い医薬品を創る。その"熱量"に押される形で我々もAI開発に取り組みました。自分たちの言葉で自分たちのやりたいことをストレートに伝えてくれるため、我々の理解も進み、作業も進めやすかったですね」と上田氏は振り返る。

 開発はあえて達成度などの目標は定めなかった。というのも、AIは急速に進化しているからだ。

 「場合によっては、これまでのやり方を変えて新しいやり方に挑戦することもある。短期的なゴールを定めると、これまでの取り組みは何だったのかという話になる。短期的なゴールを決めないことで、AIの進化を柔軟に取り入れることができました」と上田氏は続ける。取り込んだ暗黙知をTPPにきちんと反映させるため、作成・検証の作業を何十回と繰り返したという。

 開発段階では毎週、定例会を実施した。「AIの開発は実験のようなもので、トライ&エラーを繰り返すことが大事です。やりたいことができないのはなぜなのか。何が問題だったのか。自分たちのAI設計仮説に対してなぜうまくいかないかを上田さんは丁寧に説明してくれます。それを受けて、次に新たな仮説を考え、こうしたいと要望を伝えると、翌週にはそれができるようになっている。そんなやりとりを重ねて開発を進めていきました」(寺尾氏)。

"目利き力""実行力"が重要なスキルになる

 TPP作成支援へのAI活用は既に始まっている。「人が作成したTPPとAIが作成したTPPを比較したところ、ベテランの失敗談や成功秘話を反映させることで、TPPのクオリティが大きく向上することを実感しました」と寺尾氏は語る。AIとの向き合い方も中外製薬は独自の方針を貫く。AIが出した答えに対して、最終的に判断し意思決定するのは人の役割という考えだ。

 データに基づいてAIが導き出す答えは、いずれも根拠があり甲乙つけがたい。選択次第で何十億もの投資が必要になる。その成否は収益に直結するばかりか、新薬を待つ患者の人生にも影響する。

 そんな中からリスクバランスを考えて勝ち目を読むといった経営センス、経験値を集積して複合的な判断を行うことは、AIでは難しい。「複数の選択肢の中から最適解を選び、最終的に判断し責任を負う。これは人が担うべき役割です。これがイノベーションの源泉になる」と寺尾氏は主張する。

 AIの活用にリスクを懸念する意見もあるが、リスクを前提にブレーキをかけるようなことはしないという。「リスクが顕在化していないか、きちんとモニタリングしながらアクセルを踏んで共創パートナーとしてAI活用を推進していくことが肝要だと考えています」と金谷氏は語る。

 AIが共創パートナーになると、人が判断を求められる頻度が格段に上がる。「週1回だった判断が、場合によっては2時間置きに求められるようになる。それぐらいの変化があります。一定の閾値を超えることで、人はより成長していく。この閾値を超えることができるかどうか。それが、AIを使いこなす人間として成長するポイントになるのではないでしょうか」(上田氏)。

 一方、戦略分野へのAI活用が進むと、あるジレンマが生まれる。ベテランは失敗と成功を繰り返して経験を積んできたが、暗黙知を取り込んだAIを活用する次世代人材をどうやって育てるのか。

 金谷氏は「次世代人材には新たな役割が求められる」と言う。AIを自分の部下と見立てて、AIが出した答えの真偽を見抜く。誰もが自分はAIの上司という視座を持って意思決定することが重要になるとの考えだ。

 そして高みを目指し、へこたれずにやり続ける。新薬開発は、大半のプロジェクトが有効性や安全性の面で日の目を見ずに終わるが、それでも諦めない。「本質を見抜く"目利き力"と粘り強い"実行力"。この2つを人材育成の柱に据え、未来志向型戦略が描ける業界トップ人材を育てていきたい」と金谷氏は前を向く。

 中外製薬はGenerativeXと共に戦略支援型AIをより良いパートナーへと育て、多くの情報をベンチマークしながら競争優位な医薬品開発方法を業界の枠を超えて探求していく。こうした活動を通じ、患者本位の医薬品開発を加速し、世界のヘルスケア産業のトップイノベーターを目指す構えだ。