SAP S/4HANA Cloud Public Edition導入、通称「S/4プロジェクト」をけん引した、同社経営企画統轄グループの田添順也氏は、変革の背景を次のように語る。
「これまで相次ぐ法規制や会計ルールの変更に対して、マンパワーに依存した個別対応を続けてきましたが、それは限界を迎えていました。変化を柔軟に吸収し進化し続けられるよう、業務の根本的な見直しが必要だったのです。そうした中、最新テクノロジーを活用して業務を変革し、マンパワーは経営を支える側へとシフトしようという気運の高まりもあり、この変革の後押しとなりました」(田添氏)
そこで選択したのが、パブリッククラウドの活用だった。「標準化実現のためには、ユーザーがそれぞれの要望に応じて独自機能を増やす流れを断ち切る必要があります。ならば拡張余地が少なく、それでいて常に最新機能を享受できるシステムを活用するのが最適だと考え、決断しました」(田添氏)。
しかし、国内外に約350社のグループ企業を擁する巨大企業にとって「標準化」の完遂は容易なことではない。同プロジェクトのテクニカルリードを務めた日本郵船 執行役員の照木麻子氏は、「極めて高難度なプロジェクトになると覚悟はしていましたが、予想を超える困難の連続でした」と振り返る。
「Fit to Standardを掲げても、既存業務と標準機能が相反する局面は必ず生じます。これまで磨き上げてきた業務の質や効率が一時的に低下することへの懸念に対し、一貫して『グループ全体の標準化を優先する』という指針を現場に浸透させるには、粘り強い対話と時間が必要でした」(照木氏)
このためプロジェクトチームは、経営層から現場までキーパーソンが顔を合わせるコミュニケーションの場を何度も設けた。「意思決定の所在を明確にし、参加者全員が真剣に議論する。課題一つひとつを先送りにせず、軌道修正もかけながら進めていく。そんな泥臭いマネジメントにシグマクシスにもお付き合いいただき、プロジェクトを前進させました」(照木氏)。
経営層による迅速な意思決定も強力な推進力となり、プロジェクトは見事に完遂。既存システムで約450本にのぼった追加開発を約1割まで絞り込み、業務帳票も従来の8分の1へと大幅に集約した。さらなる成果について、田添氏は次のように話す。
「我々が目指したのは、導入して終わりではなく『使えば使うほど進化する仕組み』です。従来のシステムは稼働時点がピークでしたが、パブリッククラウドであれば常に最新テクノロジーを取り込み、業務とともに進化し続けることができます。これは、標準化により構築したクリーンコア環境ならではの成果だと考えています」(田添氏)
実際、同社では稼働からわずか1カ月後のグローバルバージョンアップも、一切のトラブルなく完了している。また、クリーンコア環境で高品質なデータを蓄積・活用することで、AIによる業務のさらなる効率化と高度化も現実的な射程に入る。田添氏は、「導入完了はゴールではなく、ここからがスタートです。『変革』を特別な取り組みではなく、日常の営みとして定着させていきたい」と力強く語る。
一方、照木氏は「データを活用した経営管理のあり方も、さらに深化させたい」と展望を語る。同プロジェクトでは会計領域に加え、財務取引管理やインハウスバンキングといった高度な金融モジュールも実装した。これは、国内はもとより、グローバルでも極めてまれな先駆的事例だという。
この点についてはパートナーとして伴走した株式会社シグマクシスの柳田孝紀氏も、次のように話す。「業務効率化にとどまらず、財務戦略を支える強固かつデータ駆動型の経営基盤を構築できたことは、極めて意義深い成果だと捉えています。先進事例ならではの難しさはありましたが、日本郵船様の変革への揺るぎない決意があったからこそ達成できたのだと確信しています」(柳田氏)。
約2年半にわたるこの挑戦は、組織の「人財」にも大きな変化をもたらした。照木氏は、その意義を次のように語る。
「業務・システムの両側において、大規模プロジェクトのマネジメント経験者は決して多くはありませんでした。しかし、これを組織の成長機会と捉え、若手社員にも積極的に参画してもらいました。結果として、従来の進め方にとらわれない視点や率直な意見が議論に加わり、プロジェクトを多角的に検討する土壌が生まれたと感じています。変化を前提とするパブリッククラウド特有の進め方を、若手が実践を通じて学べたことは、将来に向けた貴重な経験になりました。彼らがこの経験を糧に、次の変革に主体的に関わってくれることを期待しています」(照木氏)
次世代リーダーたちの活躍を支えたのは、プロジェクトを通じて醸成された「自ら変革を導く」という強い当事者意識、そして思考の変化だった。田添氏も、こう振り返る。
「トライ&エラーを繰り返すアジャイルな進め方は、大きな学びとなりました。完璧を求めて立ち止まるのではなく、議論し、意思決定し、時には軌道修正しながら進み続ける。その積み重ねが変革のスピードを生むのだと実感しました。大規模プロジェクトには『失敗できない』という重圧が伴いますが、自らの言葉で『何のために変えるのか』を突き詰めれば、おのずと覚悟が定まります。この思考も、このプロジェクトを通じて得たことの一つです」(田添氏)
労働力人口が減少する中、AI時代の到来とともに「人間ならではの価値創出」が問われている。日本郵船はこの難題に正面から向き合い、次世代の土台を築き、関わった一人ひとりの成長へもつなげてみせた。柳田氏は、この挑戦に改めて敬意を表するとともに、日本全体を動かす「共創」の必要性を説く。
「これからの時代、企業単体での競争ではなく、企業間の『共創』こそが日本を強くするカギとなります。パブリッククラウドには、企業同士をつなぐ力があります。その一歩を日本郵船様と共に踏み出せたことに、心から感謝しています。そして今後も、変革の志を共にする多くの企業様と共に、日本の未来を切り開く挑戦を続けていきたいという思いを強くするプロジェクトになりました」(柳田氏)
140年の歴史を持つ企業の決断から始まった変革は、単なるシステム刷新にとどまらず、社員の新たな能力を引き出し、働き方を変える原動力となった。変わらぬ確かな意志を携えて、日本郵船は「進化し続ける組織」へとさらなる舵を切る。