松崎匡さん、40代、男性
職業:介護研修講師、福祉事業所コンサルタントなど
勤務先:介護専門学校(診断時、常勤)→福祉事業所(再発時、非常勤)→ 福祉事業所(起業、代表取締役)→フリーランス
健康保険:私学共済(診断時)→協会けんぽ

肝細胞がん、ステージⅣb
早期発見により腹腔鏡手術で切除。約1年後に再発したが、その後再発箇所多数のため手術不能。肝動脈化学塞栓療法(TACE)を受け、分子標的薬(ソラフェニブ)の服用を開始。以後、半年に1度程度の再発を繰り返す。罹患から約3年後に敗血症になり、肝臓右葉切除。

・がんであることを隠さずに誰にでもオープンに話した結果、さまざまな人から支援を得られた。

・周囲に気を遣ったり遣われたりという状況がストレスになり、自分で会社を作って独立。経営を退いたあとは、入退院の合間をぬってフリーランスで仕事を継続。

あわてるな! そんな急には死にません

松崎さんは、介護の専門学校で教務主任だった2009年12月に父親の勧めで人間ドックを受診したところ、腫瘍マーカーに高い値が出た。なかなか診断が確定せずに検査を繰り返したが、最終的に肝細胞がんと診断され、2010年3月に腹腔鏡手術で切除した。

それまでは1週間に24コマを担当することもある激務で、プレッシャーも強かった。とても治療と仕事を両立できないし、教員が年度途中で倒れては迷惑だと考えて、診断が出た時点で学校を退職した。

ところが、イメージしていたのと違い、腹腔鏡手術で身体への負担は軽く、比較的すぐに身体は動くし、お酒も飲めるようになる。仕事を辞めたのは少々早まったかと思いはじめた頃、ある福祉事業所で研修部門を新たに作る話があり、開設準備からまかされて、5月ころから非常勤で働き始めた。講師は自分1人で、事務処理などの職員が3名。自分が倒れても稼げる事業をと考えて、研修講座に加えて障害児を対象とした放課後等デイサービスも開始した。

事業が軌道に乗ってきた約1年後の2011年4月に、腫瘍マーカーの数値が上がって再発。数多くのがんが散らばっているため手術は不能で、肝動脈化学塞栓療法(TACE)を受ける。同時に分子標的薬(ソラフェニブ)の服用を開始した。いったんは腫瘍マーカーの値が下がったが、以後、半年に1度ずつくらいで再発と処置を繰り返すことになった。

再発を繰り返すうちに、組織の中で「また?」という雰囲気を感じるようになってきた。講師は自分だけなので、もし自分が倒れると部下は仕事がなくなり、その事業所にいづらくなってしまう。また、事業所の方針と自分の考えが合わない部分もあった。そこで部下を2人引き連れて独立する形で、2011年7月に会社を設立。本当はNPO法人にしたかったが、認可に時間がかからない株式会社にした。

福祉の仕事をしてきて、自分の理想を実現するために事業所を立ちあげるという夢はあったが、がんにならなければ起業はしなかっただろう。社長になれば「また?」とは言われないだろうし、どうせストレスがあるなら、チャレンジするほうが有益だと考えた。

新しい会社では、放課後等デイサービス事業と高齢者の訪問介護事業を2本の柱として、連れてきた2人の社員に1人ずつ担当してもらった。放課後等デイサービスには切実なニーズがあり、事業はすぐに黒字化した。

オープンに話すことで、応援してくれる人たちに恵まれた

起業時に、社員は全員自分のがんのことを知っていて、新たに採用するパート社員にもすべて話した。利用者とその家族にもオープンに自分の病状を説明し、不安があったら利用してくれなくてよいと伝えた。入院中には電話対応で済ませるといったことはあったが、当初は特に支障なく、応援してくれる人たちには恵まれた。

2012年9月末に再発して治療後にいったん退院したが、10月末にまっすぐ歩けない状態になり、緊急入院した。肝臓内に胆汁がたまり敗血症の状態だった。治療法がなく、点滴のみで1か月過ごし、「あと半年持たない」と言われたが、12月に腐った肝臓を摘出するということで肝臓右葉を切除し、一命を取り留めた。

いまのうちにできることはやっておこうと仕事で無理をしすぎたことが、症状悪化につながったかもしれない。患者は、早く復帰したくて焦って無理をしがちだ。医療者には、「あまり無理しないで」といった抽象的な話ではなく、「こういう状況になったらストップしなさい」と具体的な基準を示してもらえるとありがたい。

その後も半年に一度程度の再発と術後の合併症(胆汁漏)の悪化などで、3か月に1回ほど入退院を繰り返した。身体を動かせなくても会社に貢献したいと思って、いろいろと提案をしたら、「社長は入院していても給料をもらえていいよね」と言われるようになってきた。福祉の仕事では、現場で身体を動かしてこそという風潮があるので、理解されないのは、ある程度やむを得ない。しかし、治療をしながら経営者として発言することは難しい。

そこで、自分が会社の負担にならないように、部下にあとを引き継いでもらって身を引こうと考えた。ところが部下との間でボタンが掛け違ってしまい、自分の思いとは違う形で、別の経営者が事業を引き継いだ。「あとを継ぎますよ」と言ってくれても、部下はまだ準備ができていなかったのかもしれない。夢を託そうと思って創業したが、夢は自分で見るものなのだと悟った。ともあれ、2014年3月に自分は会社を退職した。

その頃、がんサポートコミュニティー(※1)に参加し、不安や恐怖を人に話すことで、自分を客観視したり、折れそうになる心を奮い立たせることができた。キャンサーネットジャパン(※2)の「がん体験者スピーカー養成講座」も受講して、悲劇のヒーロー的な思考から抜け出すことができた。

会社を離れたあとは、フリーランスで福祉事業所のコンサルタントや研修講師の仕事を開始した。病状を理解した上で、仕事をさせてくれる方が何人もいた。経済的な意味だけでなく、社会参加の場を提供してもらえることがありがたかった。

※1 がんサポートコミュニティー
がん患者と家族のために、医療や福祉の専門家が心理社会的なサポートを行うNPO法人。似たような境遇の人と語り合うグループサポート、ストレスの軽減とコントロールのためのリラクゼーションプログラムなどを実施している。
※2 キャンサーネットジャパン
がんになっても生きがいのある社会を目指して、がん患者擁護の立場から情報発信を行うNPO法人。「がん体験者スピーカー養成講座」は、自分のがん体験を講演できるようになるため、知識の整理や原稿作成をサポートするプログラム。

生きている喜びをかみしめられない

昨年10月に3回セットの研修を請け負ったが、1回終えたところで倒れて入院して、できなくなった。フリーランスでの仕事が軌道に乗ったと思ったところだったが、いまはいつ入院になるかわからず約束ができないので、研修は請け負っていない。執筆の仕事を細々と続けている状況だ。

協会けんぽの傷病手当を活用していたが、制度は1年半しか使えないため、今月で終わってしまう。ありがたい制度だが、進行していく病気にマッチしたものにしていただきたいとも思う。

診断時に入っていた私学共済では、3級から障害年金を受給できるとわかった。自分は該当しそうということで、現在申請中だ。もし国民健康保険なら、障害年金は2級からしかもらえなかった。ただ、手続きにものすごく時間がかかった。診断書をもらうのに半年、診断書を添えて2月に申請してから、次々と指示される書類を揃えるのに5月までかかった。

自分の健康を過信して、がん保険など民間の医療保険に入っていなかったのは、失敗だった。ノーガードでがんに向き合うことになり、経済的にはとても深刻だ。それもあって、治療、検査、再発などが次々起こると、冷静な判断力がなくなってくる。制度のことは、自分で必死で調べたり、たまたま話を聞いたりした。相談支援センターの医療ソーシャルワーカー(MSW)は、一般的な知識はあるが、個々の相談者が抱える問題に対して使える具体的な支援策の知識が必ずしも十分ではないように感じる。

がんになったあと、自分でも驚くくらい病気のことを勉強した。専門用語などを知っていると、医療者とのコミュニケーションが円滑になる。ただし、それを武器に論争や批判をすることは意味がない。医師に不満ばかり言う人には、医師の対応も冷たくなっていくだけだ。自分は病棟の担当医とたまたま同じマンションに住んでいて、エレベーターなどで出会って話すことがある。ざっくばらんに私の話を聞いてもらえるのはありがたい。

テレビドラマなどの影響で、「がんになったらすぐに死ぬんだ」と思い込んでしまっていたが、がん告知から5年以上経ったいまも生きている。しかし、経済的に追い詰められ、自分の居場所がどんどんなくなっていって、生きている喜びをかみしめられない。

障害者の就労支援はあるが、がんにはほとんどない。就労支援ということでは、障害とがんのような慢性疾患とは共通点が多いので、一緒に活用できるようなしくみができればと思っている。

・がんの診断を受けた時点で続けられないと思って仕事を辞めたのは、早く決断しすぎた。

・自分ががんであることを完全にオープンに話すことで、多くの人たちから支援を受けられた。反面、一見元気そうに見えるため、理解されないこともあった。

・それまでのキャリアで専門能力と人脈があったため、非常勤、経営者、フリーランスと形を変えながら、何らかの仕事を続けていけた。

松崎さんは、治療と仕事を調和させるためにさまざまな工夫や努力を続けてこられました。進行がんであっても退職判断は慎重にすべきだったと思っていること、手を尽くして病状を周囲に説明し起業を実現したこと、それでもボタンのかけ違いは起き得ること、社長退職後も支援グループに参加して自分を見つめ直したこと、現在もフリーで仕事を続けていること、冷静な判断力を保つためにも経済的裏付けは重要だと痛感していること。さまざまな局面が語られましたが、もっとも印象的なのは、状況が変化しても松崎さんが常に「そのとき可能な社会参加」を模索し、実現してこられたことです。その姿勢があったからこそ、周囲からの支援も得られたのではないでしょうか。

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