ゼロから事業を立ち上げた新規参入企業が、10年足らずの間に先行する競合を押しのけ、市場で圧倒的な首位の座を獲得した事例は少ない。その珍しい企業の1つが、不動産投資信託(REIT)向けのエンジニアリングレポートの国内市場で断トツのシェアを誇る東京海上ディーアール(TdR)である。同事業の成長をけん引した中核メンバーの1人、不動産リスクソリューション本部の川島正博氏が、大躍進の舞台裏と、さらに続く新事業への挑戦について語った。
市場シェア、実に40%超 注)。2位が10%を切るというから、ぶっちぎりのナンバーワンだ。年間に稼ぎ出す金額は、TdRの商材の中で最も大きい。しかも、本丸の保険業とは縁もゆかりもなかった事業である。
TdR不動産リスクソリューション本部の主要な商材は、不動産投資信託(REIT)向けの「エンジニアリングレポート(ER)」の作成だ。不動産の法的な調査、資産価値の評価と並んで、いわゆるデューデリジェンスに不可欠の要素である。ERのカバー範囲は物件の物理的な価値やリスク。物件の修繕や法的な基準への対応に必要な金額の見積り、耐震性、土壌の汚染の有無などを精査し、150ページほどの文書にまとめる。現在TdRは、その市場で圧倒的な首位である。過去に経験や実績が全くない新領域で事業を立ち上げ、売り上げゼロから10年余りでここまで育てたというから舌を巻く。
その事業拡大の立役者の1人が、2007年に中途入社した川島正博氏である。彼が採用されたのは、ERの業務に携わった経験や専門知識からではなかった。
「全くの素人でした。建築をかじっている人なら知っていて当たり前の検査済証の存在も知らなかったくらいですから」(川島氏)。
当時、ER市場における同社のシェアは皆無と言ってよかった。だから、まずは顧客を見つけなければならない。川島氏を含め5人ほどいた現場の担当者は、見込み客に次々と電話をかけ、直接訪問した。こうした地道な取り組みをするしかなかった。
川島氏はもともと、水道施設の開発エンジニアだったが、この時は辣腕の営業担当者も顔負けのフットワークで顧客から顧客へ駆け回った。
実はTdRには、直接顧客に営業をかける部署がない。不動産以外の事業は、兄弟会社の東京海上日動火災保険が手掛ける保険サービスと関連するものが多いため、顧客の多くは同社からの紹介だった。ところが保険と無縁のER事業では、それを期待できない。自分たちで開拓するしかなかった。
ERのチームが第一に注力したのは、定期的に見込める売り上げの確保だった。苦労して取った仕事も単発止まりでは、先の見通しを立てられない。この時チームを率いていた不動産ソリューション本部本部長の渡部弘之氏が、2007年に証券化の対象になる不動産の鑑定評価基準が改正されたことに目を付けた。改正によって、REITが5年ほどでERを再取得するサイクルが生まれると踏んだのである。既存のREITに食い込めれば、今後の継続的な売り上げにつながる。
だが既存のREITは、建築に関する知識が豊富な大手ゼネコン等のER会社に既に依頼している。新参者のTdRはどうすれば、その一角を切り崩せるのか。そこでTdRが打ち出したのは、これ以上ない正攻法である。顧客に徹底的に寄り添うのだ。
ERの業務は、現場を視察し、見つかった問題を掘り下げ、報告の文書をまとめるまで。それが当たり前だった中で、川島氏らはその後が勝負になると見た。ERを受け取るREITの担当者は金融業界出身者が多く、大抵建築には疎い。専門的なERの内容が腑に落ちなくても不思議はない。ところがERの大手企業は、内容の説明をしないどころか、文書の提出後に一切質問を受けないところもあった。だが、TdRは違った。顧客から連絡が入れば、どんな内容でも逐一対応した。専門用語を解説し、劣化の補修方法をかみ砕き、修理の相談を受けたときは、進んで業者を紹介した。
手応えを感じるまでに4〜5年はかかったが、気が付けば取引のなかった顧客からも声が掛かるようになっていた。どこからか、TdRのいい評判を聞きつけたらしい。川島氏も、一挙に100物件もの大型契約を獲得した。巨大な波が、ついにやって来た。
新事業の可能性を見いだす人がいただけでは、こうはならない。地に足のついた方法で形にする人がいたからこそ、その可能性をものにできたのだ。
多くの顧客の声を聞き、丁寧に応えることで新たな案件につなげるという地道な姿勢は、その後も一貫している。最近では1人のER担当者が年間に訪問する現場は100件を超える。これもERを主力事業へと成長させたチカラになったことは間違いない。
こうしてTdRのER事業が成功を収めた今、川島氏の目は新しい方向を向いている。彼の現在の業務は、REIT業界を対象にしたESG(環境・社会・ガバナンス)に関するコンサルティングである。2020年度のTdR内の新規事業公募制度に、自ら提案したアイデアがもとになったというが、こちらも半期で年間目標達成のメドが立ちそうなぐらい順調だ。
川島氏は、同じことの繰り返しに飽き足らず、新しい価値を創造しないではいられないたちである。
「10年以上も同じ仕事をしていると、顧客や周辺業界の潜在ニーズが見えてくる。すると新しい事業のアイデアが次々と湧いてくる」(川島氏)。
川島氏の意欲はとどまるところを知らない。翌2021年度には、後継者不足と施設の老朽化が顕著な神社に目を付け、地域のコミュニティの再生も込みで支援するというユニークな新事業を提案している。
このようにあふれ出る発想と行動力を兼ね備えた川島氏ならば、放っておいても次々と画期的な新事業を考案し、形にしていくだろう。だが、このような人材の数は限られている。川島氏のように事業化に向けて行動を起こす人を増やすには、一体どうすればいいのか。大前提は、ただでさえ成功率が低い新事業に挑戦した者は、たとえ失敗してもマイナスの評価を下さないことだろう。しかしそれだけでは、アイデアはあっても自信がない大勢の予備軍を後押しするには足りない。
ここで日本企業に欠けているのは、ムチではなくアメの使い方ではないか。成功者にスポットライトを当て、破格の褒賞で報いる姿勢である。新事業の功労者にフェラーリ1台分の褒賞を与えるのもよいかもしれない。
「びっくりするような報酬があれば、新事業を提案する社員が次々と出てくるのでは。表に出さないだけで、新事業のアイデアを持っている人はたくさんいるはずですから」(川島氏)。
撮影:栗原克己