日経ビジネスオンラインスペシャル

マーケットは熱狂から“踊り場”へ。今、腕時計選びに必要なのはセンスよりも、確かな知識と判断力だ。

2024.06.28

コロナ禍からの完全脱却の中で行われた「ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ(W&WG)2024」。昨年は見られなかった中国からの参加者も復活し、平時を取り戻した。一方、マーケット的には “踊り場”へ差し掛かっていると言われる腕時計業界だけに、その動向が大きな注目を浴びた。結論から言えば、イベント自体は盛り上がった。しかし、その盛り上がりはあくまで斑模様で、ブランドの優劣がより際立ったという印象が強い。一時のように、何を買っても問題ないという時代は終わったのだ。踊り場局面であるからこそ、真価が問われる各腕時計ブランドの実力。これからの時代、腕時計はどう選ぶのが正解なのか。十数年以上、現地取材を続けている時計専門誌『クロノス』日本版編集長・広田雅将氏と時計ジャーナリストの篠田哲生氏、本時計特集を担当する安藤夏樹がその動向を検証する。
文=いなもあきこ

安藤
まず、4月に行われた国際的な腕時計見本市「ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ(W&WG)2024」を訪れた率直な印象をお聞かせください。
広田
今年は“大作の出し控え”を感じました。カルティエもパテック フィリップもヴァシュロン・コンスタンタンもA.ランゲ&ゾーネも、基本的には既存モデルベースの展開でしたね。
安藤
出し控えというと、すでに開発していたモデルを発表しなかったと?
篠田
ええ、「様子を見て、後で発表します」というモデルも結構あったと思いますよ。
広田
それには、時計業界の景気が影響していると思います。
安藤
ここ数年を俯瞰すれば、コロナ禍、腕時計業界は絶好調でしたよね。世界最大市場であるアメリカを中心に、補助金などによる余剰金が高級腕時計に流れたことが主な要因と考えられています。それを反映し、2021年第4四半期から2022年頭にかけて価格も上昇しました。
篠田
2023年もスイスの腕時計の輸出額は267億スイスフランで、金額ベースでは3年連続過去最高を記録しているんですよ。でも2024年の1月から3月期は、前年同期比でマイナス6.3%に。特に世界第2位の市場である中国でマイナス22.7%、第3位の香港でマイナス25.6%と大きく後退しています。
広田
まあ、金余りが時計業界の加熱を生んだけれど、それはある種異常な状態だったということ。それがようやく沈静化、正常化してきたと言えるのではないでしょうか。ただ中国市場の動きを見るに、予想よりもハードランディングになりそうですね。
安藤
そうしたことを踏まえ、結果として各ブランドは大作を用意はしていたけれど出し控え、今回は既存モデルの色違いや素材違いを出すことにした、と。では、次に大作を発表するタイミングって、そのレベルにもよるとは思いますが、いつぐらいだと見ていますか?
広田
いろんな見方がありますが、1つは腕時計業界のアカデミー賞と言われる「ジュネーブ時計グランプリ(GPHG)」ノミネートのタイミングである、9月の直前が予想されます。
安藤
なるほど。GPHGで賞を取ると、実際に売れるんですよね?
篠田
話題にはなりますよね。例えばレイモンド ウェイルの「ミレジム」コレクションも、昨年のGPHGの2000スイスフラン以下の時計を対象とするチャレンジウォッチ部門で受賞して以来、よく口の端に名前が上るようになりましたし。
安藤
いや、僕も正直「ミレジム」にはちょっと驚いたんですよ。シンプルでいい時計を、あんなお手頃価格で作れるんだ、と。しかも今回はW&WGでデビューを飾りました。僕の注目は「ミレジム オートマティックセンターセコンド」に追加されたケース径35㎜の新作。ここ数年、「小径モデルが来る」と言いながら実際には大半が40㎜を切るという程度で、 本当の意味での小径モデルの選択肢ってほとんどなかった。その点、あれは買えるモデルだなと感じます。
篠田
「ミレジム ムーンフェイズ」も良かったな。ムーンフェイズに顔を入れるというレトロ感がなかなか面白いなと思いましたね。
安藤
ただ、結局のところW&WGのようなフェアで発表しないと、ニュースになるレベルがやっぱり小さいじゃないですか。専門メディアは記事にしても、一般メディアはなかなか取り上げられない。すごく勝負をかけているモデルのお披露目は、来年以降のW&WGまで延ばす可能性もあるんじゃないかな。
広田
それは十分にあるでしょうね。

篠田哲生氏の
おすすめモデル

篠田哲生/時計ジャーナリスト。雑誌『ホットドッグ・プレス』を経て独立。著書に『成功者はなぜウブロの時計に惹かれるのか。』(幻冬舎)、『教養としての腕時計選び』(光文社新書)がある。

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カルティエ
カルティエ プリヴェ「トーチュ」
モノプッシャー クロノグラフ
1912年に発表された「トーチュ」が待望の復活。「人気の高いビンテージモデルを新作で出す、そのタイミングの良さはさすが」(篠田氏)。手巻き、18KYGケース、縦43.7×横34.8㎜、世界限定200本。予価805万2000円(10月発売予定)
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レイモンド ウェイル
ミレジム ムーンフェイズ
今年W&WGに初お目見えしたレイモンド ウェイルが、世界的評価の高まるコレクション「ミレジム」にムーンフェイズを追加。「手頃な価格で非常に良くできた1本」(篠田氏)。自動巻き、SSケース、径39.5㎜。37万4000円(10月発売予定)

デザイン性と歴史的正当性が鍵

篠田
大物の発表が少なかった一方で、今年はビジネスウォッチとして使える実用時計は充実していたと思います。既存モデルの色違いが目立ったとはいえ、決して小手先ではなく、逆にデザインを武器にして面白い提案をしようという意識が多くのブランドから感じられて。
安藤
そう、ダイヤルの色、ケースの素材やサイズという点でそれぞれ幅が広がって、選択肢が豊富になりましたね。
篠田
色で言えば、例えば「タグ・ホイヤー フォーミュラ1 “KITH”」は印象的でした。少し派手だけど、小径なのでビジネスでも使えると思う。
広田
パルミジャーニ・フルリエの手巻きの「トリック」コレクションもいい。「ちいかわ」みたいな色を使っていて。
安藤
ちいかわ?
篠田
人気漫画のことですよ(笑)。
安藤
ああ、微妙な中間色ってことですか。いや、でも一応あれ、ル・コルビュジエのカラーパレットから引用しているんですけどね(笑)。ニュアンスカラーを採用したという点では、IWCの「ポルトギーゼ」コレクションもそう。優しい感じの何とも言えない色合いで。
篠田
これまで腕時計業界ではムーブメントの開発競争が続いて、スペック至上主義みたいなところがあったじゃないですか。でも、全体のレベルが上がったことでコモディティ化してしまった。それゆえに、機械だけが議論のコアになるということがなくなったんでしょうね。
広田
その状況は、奇しくも1970年代と同じなんですよ。70年代にはクオーツが登場し、別に機械式でなくてもいいよねという空気になった。するとデザインが重要視され、バリエーションが豊富で歴史的な正当性もあるものに関心が向くわけです。その意味で今、カルティエなどに注目が集まるのは必然ですよね。
安藤
僕はセカンダリーでのポジションをきちんと理解しているブランドは、業界全体が踊り場の局面でも、時流に合った形で自分たちらしい戦略を出しているなと思ったんです。その急先鋒は、まさにカルティエ。例えば10年ほど前まで1960年代や70年代のカルティエって、セカンダリーで非常に値頃感がありました。ラグジュアリーではあるけれどムーブメントが自社製ではないなどの点もあってか、時計ファンがつきにくかった。でもここに来て急激に評価を上げていますよね。
篠田
確かにセカンダリーでの値動きを見ると全体的にはピークアウトしているものの、カルティエは安定的に推移しています。
安藤
みんな値下がりしないものが欲しいと思っているわけですが、じゃあそれは何かというと、ブランドの歴史に沿った文脈のある腕時計ということになる。
篠田
あと、スタイルに一貫性があることも重要。「トーチュ」なんて、ビンテージが欲しいと思っていたところに、ちゃんと新製品が出てくるわけですからタイミングも抜群です。
安藤
今は新品とビンテージ、両方とも盛り上がって相乗効果を生んでいます。昔のデザインを現代的感覚でリバイバルし、ディテールの違いを作ることで差別化。それが結果的にレア化して価値になるという、中古マーケットの構造をカルティエは研究し尽くしていると感じます。新作でありながら、すでにアーカイブの一部になっているというような状態で、将来のコレクターズアイテムを作っている感じがすごくあります。

広田雅将氏の
おすすめモデル

広田雅将/時計ジャーナリスト。時計専門誌『クロノス』日本版編集長。国内外の数多くの雑誌で活発に執筆活動を行う。共著に『ジャパン・メイド トゥールビヨン』(日刊工業新聞社)など。

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グランドセイコー
エボリューション9 コレクション
SLGW003
10振動手巻きムーブメント「キャリバー9SA4」を搭載した、「白樺ダイヤル」のドレスウォッチ。「巻き上げ時の感触が心地いい。サイズも小ぶりで軽いのが魅力」(広田氏)。手巻き、Tiケース、径38.6㎜。145万2000円(8月発売予定)
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チューダー
ブラックベイ 58 GMT
「今までのGMTモデルより薄くて小さい。また瞬時日送りに加えて逆戻しもできる、おそらく最も実用的なGMT」(広田氏)。マスター クロノメーター認定を受け、耐磁性能も非常に高い。自動巻き、SSケース、径39㎜。64万3500円

ラグスポの次に来るものは?

篠田
自らの魅力をよく理解しているという理由で評価できるブランドは他にもあります。例えばシャネルは出自に立ち返り、ココ・シャネルのクチュールの世界をしっかり出しました。
広田
ジャガー・ルクルトなんかは過去のアーカイブを見てもメカニカルウォッチのイメージがあるから、そこに添った新作をちゃんと作ってきましたよね。
安藤
グランドセイコーは、1969年にスイス天文台クロノメーターコンクールで入賞した「Cal.4580」以来となる手巻きのハイビートを投入しました。言ってみれば手巻きハイビートで世界を席巻した歴史を受け継ぐ新作。ちなみにCal.4580搭載機は今、セカンダリーでも非常に評価が高いです。
広田
グランドセイコーの手巻きハイビートは、他の点でもポイントを押さえていますよね。直径38.6mmで厚さが10mmを切っていて、本当に軽くて使いやすいんですよ。あと巻き上げた感触がすごくいい。いわゆる感性価値みたいなもので、それって今までにない打ち出し方ですよね。そう考えると、身に着けるものとか触るものとしての腕時計を追求するという、ここ数年続いていた傾向が今年はより強く出てきたのかなと。
篠田
パテック フィリップ「ゴールデン・エリプス」のブレスレットもね。
安藤
あれはいいですよね。金属で編んでいるようなブレスだから、これまでなら手首のサイズに合わせて切らなきゃいけなかったのに、それをコマで調整できるようにしたというんだからすごい。
篠田
しかも可動域が滑らかですっと肌に馴染む感じも含め、“装身具”としての価値を強く意識していますよね。
安藤
このところのブレスレットの開発競争ってあくまでもスポーツウォッチに関するものが中心でしたが、それがドレスウォッチの方にも波及してきた。ここしばらく続いてきたスポーツウォッチ全盛の時代には脇役に甘んじていたドレスウォッチに、ブランドの目がようやく向いたということかもしれません。
広田
そう思います。ドレスがメインストリームになるかどうかはわかりませんが、明らかに注目が集まっている。つまり、2015年以降、一極集中で市場を席巻してきたステンレススチール製ブレスレット付きのいわゆる“ラグスポ”が一段落したのかな、という印象ですね。
安藤
しかも昔のドレスって実用性という点では不十分なモデルが多かったけれど、今は薄くて小さい時計でも最低限の防水性や耐衝撃性を備えていますよね。
広田
それを可能にしたのは、外装の加工技術の進化だと僕は思います。ラグスポの開発を続けたおかげで、薄くて小さい時計であっても防水性能を向上させることに成功した。その技術が今、エレガンスを表現するのに転用されているわけです。いわゆるドレスウォッチとは少し違いますが、今年のIWC「ポルトギーゼ・オートマティック 42」もそう。風防をドームからボックスに変更してベゼルを細くし、よりドレッシーな時計になりましたが、あんなふうにしたら普通は防水性能が下がるはず。ですが、実際は以前の3気圧から5気圧に上がっているんです。
安藤
僕の注目は、ピアジェです。新作「ピアジェ ポロ 79」なんかはラグスポよりさらにドレスに近い、スポーティエレガンスと言っていい時計。
篠田
何せすべてが金無垢ですもの。
安藤
金無垢は本来スポーツには向かないですからね。重いし(笑)。
篠田
僕は今、金無垢に惹かれていて。
安藤
わかります。2、3年前は別にステンレスでいいと思っていたけど、ここに来てやっぱりみんな無垢が欲しくなっている。金価格が大幅に上がっているという事実も、知らない間に購買心理に影響を与えているのかもしれないけれど。
篠田
やっぱり経済と密接に関係しますから。しかも僕は、ゴールドはゴールドでもイエローゴールドがいい。
安藤
そう、ピンクじゃなくて、イエロー! ピンクは肌馴染みがいいと言われますが、むしろ気持ちを盛り上げるには少し違和感があるくらいがいいわけで。
広田
そう考えると、最近はドレスウォッチから距離を置いてきたという人も、久しぶりに試してみるにはいい時期かも。それに文字盤で遊ぶのなら、ドレスの方が向いていますよね。スポーツウォッチの場合は、どうしても視認性を無視できず制約が大きくなるから。
安藤
シンプルだけど文字盤に遊びがある、というくらいのドレスウォッチが今の気分に合うのかもしれません。

安藤夏樹の
おすすめモデル

安藤夏樹/本時計特集の編集責任者を務める。『MOMENTUM』(日経BP)編集長を経て独立。国際的な腕時計見本市に、十数年通い続ける。現在は時計を中心とした記事を数多く編集、執筆。

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ピアジェ
ピアジェ ポロ 79
45年前のオリジナルデザインを忠実に再現した、創業150周年記念モデル。「スポーティエレガンスを体現するオール金無垢のルックスが、まさに今の気分」(安藤)。自動巻き、18KYGケース、径38㎜。1179万2000円(受注生産)
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パルミジャーニ・フルリエ
トリック プティ・セコンド
ブランド創設時のコレクションが新鮮な姿で復活。ムーブメントからダイヤル、インデックスや針までゴールド製だ。「ミニマルなデザインとニュアンスカラーが美しい」(安藤)。手巻き、Ptケース、径40.6㎜。820万6000円(今秋発売予定)

究極の手作りが高付加価値に

安藤
最後に、最近広がってきたオートメーションによる時計作りについてご意見をお聞かせください。機械製造を売りにした先駆的ブランドといえば、スウォッチです。1990年代を中心に大流行して、デザインで時計の価値を作りました。それを久々に、この間の「ムーンスウォッチ」でもう1回やってみせたわけです。
篠田
今回のブランパンとのコラボレーションモデルもそうですよね。
安藤
近年はタグ・ホイヤーが製造の機械化を進めて、本来は高級であるはずのトゥールビヨンを驚きの低価格で出しました。そしてチューダーは今、完全にオートメーション化による製造を前面に出しています。これまでは、時計って人の手がかかっているから価値があると考えられてきたわけですが、その点はコアな時計ファンからするとどうですか?
広田
僕は、もういいんじゃないかなって思うんですよ。スイスの賃金の高さを考えると、まともに人の手をかけると競争力が維持できない。だったら機械化を進めて、魅力的な値段で買えるものを作るというのは正しいんじゃないのかな。
安藤
もう精度の面ではオートメーションで十分なものが作れる?
広田
はい。しかもチューダーなんて精度以外の商品力も十分に高いですし。
篠田
でも翻って考えてみれば、機械化のレベルが高まったからこそ、逆に今後は人の手がプレミアムになるかもしれませんよ。
安藤
手作りを極めたものは、むしろ今以上に価値が高くなっていく、と。
広田
と思いますね。相対的にスイス以外のブランド、例えばフランスやドイツ、日本などではまだ人件費をかけられるので、競争力が一段と増すのでは。今年のグランドセイコーの手巻きハイビートなんて、まさに人の手をかけないと作れないような時計ですからね。今後の国産時計のさらなる躍進にも期待大です。