日経ビジネスオンラインスペシャル

時を編む手、世界を照らす光──ジュネーブから

2025.06.27

2025年春に開催されたウォッチズ・アンド・ワンダーズ ジュネーブ2025(以下W&WG)は、過去最多となる5万5千人超の来場者を迎えた。出展ブランド数も60を数え、規模、熱気、創造性のいずれにおいても、過去最高と評されるにふさわしい内容だった。パンデミック以降、定番モデルの色替えなどで慎重な姿勢を続けていた各社が、今年は一転し、創造力と技術力を競い合うような新作をそろえた印象を受けた。そこには「時計の祭典」と呼ぶべき、華やかで高揚感に満ちた時間が流れていた。

W&WGの会場では、各ブランドのブースが設えからして一つの世界観を持ち、もはや“製品を並べる”という域を超えた表現空間となっていた。高級時計が単なる時を刻む道具ではなく、ブランドの哲学と顧客のライフスタイルを結ぶ装置であることが、明快に伝わってくる。そこに集まったバイヤーやプレス、そして一般来場者の熱気は、パンデミック期の制約や不安を遠い過去のものとしていた。対話や驚きが交錯する会場の空気は、まさに祝祭のようだった。W&WG主催者の公式発表によれば、3日間の一般公開チケットも前年比21%増となる2万3千枚以上が販売されるなど、あらゆる数値がイベントの盛況を裏付けている。

実際、スイス時計産業全体も再び前進を始めている。スイス時計協会FHの統計によれば、24年のスイス時計輸出は前年からやや減少したものの、日本市場は例外的に伸長し、前年比で約8%の増加を記録した。円安やインバウンド需要も追い風となり、日本は今やアメリカ、中国に次ぐ世界第3位の輸出先となっている。また、アメリカ市場も堅調で、世界全体で見ると高価格帯モデルの出荷が底堅く推移している。中価格帯以下のボリュームゾーンに調整感が出ている一方で、ラグジュアリー市場の「上澄み」は依然として強く、特にトップブランドの寡占化が一層進んでいる。

1・2 ヴァシュロン・コンスタンタンの話題作「レ・ キャビノティエ・ ソラリア・ ウルトラ・ グランドコンプリケーション – ラ プルミエール –」。 3 ジャガー・ルクルトのブース。1931年に誕生した「レベルソ」の起源であるポロ競技に光を当てた。 4 エルメスのインスタレーションにて。 5 W&WG期間中、時計業界のトレンドや技術に関する発表、セミナー、パネル展示などが行われた。

こうした中、今回のW&WGで最も注目を集めたのは、ブランドが競うように披露した技術的な挑戦の数々である。中でも象徴的だったのが、創業270周年を迎えたヴァシュロン・コンスタンタンが発表した超複雑機構モデル。41の複雑機能を搭載し、1521個の部品で構成されたこの時計は、まさに技術と芸術の極地といえる存在だ。グランドセイコーは新たに開発したスプリングドライブのムーブメントで、年差±20秒という驚異的な精度を実現。日本の時計製造が世界の頂点と肩を並べる水準にあることを示した。またブルガリは、わずか1.85㎜厚のフライングトゥールビヨンを搭載した新作で、自らの持つ世界最薄記録を更新。ブランドのDNAである大胆さと先進性を、技術で証明してみせた。

さらに、会場内で目を引いたのは、カルティエの「タンク ア ギシェ」。メゾンが今年掲げたテーマは「魔法」と「変容」。象徴的なデジタル表示の機構を搭載したレクタンギュラーウォッチが配置された場所は、まるで時間そのものの輪郭を曖昧にし、静かに別世界へと引き込むようだった。ジャガー・ルクルトは、名作「レベルソ」誕生の背景であるポロ競技に再び光を当てた。厩舎をモチーフに仕立てられたブースでは、特殊なモニターを用いて馬と選手の躍動を映し出し、往時のムードを現代的に昇華させ、華麗な騎馬競技の世界へと誘う空間を演出。過去と現在が静かに交差する、記憶の舞台装置のようでもあった。そして、エルメス。新作に採用された機構「タンシュスポンデュ」の“時を止める”という詩的な概念と呼応するように構成されたインスタレーションも印象的だった。空間全体は“時の流れ”を実感させながら、その歩みを静かに緩めていくような体験として成立し、視覚と体感を通じて、時間のあり方を改めて問い直す場となっていた。

6 F1の公式タイムキーパー復帰を祝う、タグ・ホイヤーのブース。 7 ゴールデンアワーと名付けられた繊細な色彩が印象的だったパルミジャーニ・フルリエの「トリック パーペチュアルカレンダー」。 8 大きな話題の一つとなったロレックスの新モデル「ランドドゥエラー」。

一方で、ブランドの戦略的な打ち出しとして印象深かったのは、タグ・ホイヤーとIWCである。前者はF1への公式タイムキーパー復帰を機に「Designed to Win(勝利のために)」というスローガンを掲げたキャンペーンを展開。太陽光で駆動する「タグ・ホイヤー フォーミュラ1」コレクションの新作では、エネルギー効率とモータースポーツのスピリットを融合させたデザインが存在感を放っていた。後者のIWCは、映画『F1/エフワン』とのコラボレーションを通じて、F1マシンと並走する撮影車がカメラを構えながら疾走するようなシーンを想起させる演出で注目を集めた。映像世界に溶け込むようにレイアウトされた新作時計は、スピードと精密さの共振を体現していた。いずれも、単なる製品展示にとどまらず、ブランドの哲学や物語を空間ごと伝える構成となっていた。そして、パルミジャーニ・フルリエが提案する「プライベートラグジュアリー」の文脈において、新作「トリック パーペチュアルカレンダー」のまとう繊細な色彩は、機能性と美意識の両立を語る静かなメッセージとして胸に残った。

そうした表現の広がりは、文字盤の質感、配色、ケースサイズのバリエーションにおいても見られ、今年の新作は実に豊かな顔ぶれだった。小ぶりなサイズ感のケースはここ数年で着実に支持を広げてきたが、今年はいよいよ定着の兆しを見せ、多くのブランドがケース径40㎜以下のモデルを打ち出していた。性別やスタイルを問わず、より幅広い顧客層に応える提案が進んでいる。中でも女性向け、あるいはジェンダーニュートラルなモデルの展開は活発で、多くのブランドがジュエリーウォッチやスリムケースモデルを新たに投入していた。この分野は、今後さらに成長が見込まれる領域として、各社とも注力を強めている印象だ。

9 カルティエのブースで足を止める来場者。 10 常に人であふれていたパテック フィリップのブース。 11 ブルーセラミックによる新作発表を“青い空間”で演出したシャネルのブース。 12 ピアジェのアンバサダーを務める女優チョン・ジヒョンも来場。

さらに今年のW&WGでは、若年層との接点を拡大する姿勢も明確だった。会場内では時計学校やスタートアップが技術展示を行い、1万人近い学生がプログラムに参加。スイスの伝統産業としての時計製造が、次の世代に確かに受け継がれていることを実感させられた。また、SNSやYouTubeを通じたリアルタイム発信が盛り上がりを加速させ、イベントの熱気が世界中に共有された点も、近年ならではの現象といえるだろう。実際、「#watchesandwonders2025」のハッシュタグはSNS上で推定7億人以上にリーチし、その存在感はまさに“世界が注目する時計の大舞台”であった。

高級時計は今、その存在価値を再定義しつつある。投機的な熱狂が一段落し、真に魅力あるものが見直される局面へと移行している。その中で、ブランドは過去の遺産に寄りかかるのではなく、新しい感性や技術で未来の顧客に語りかけている。今回のW&WGは、そうした時計業界の“次の物語”の幕開けを感じさせた。ものづくりへの信念と、それを手にする人々の情熱。高級時計をめぐる鼓動は、今も確かに、力強く響いている。

13 A.ランゲ&ゾーネのブース。 14・15 今年は過去最多の来場者数を記録し、W&WGは大盛況に終わった。