
2025年に創業50周年を迎えたモンベル。
名うての登山家だった辰野勇会長が裸一貫で興した小さな会社は、今や世界中で愛されるアウトドアブランドとなった。ナショナル ジオグラフィック読者にもファンが多いはずだ。モンベルのモノづくり、アウトドアを通じた社会貢献、そして事業の哲学について辰野会長にじっくりと話を聞いた。
ナショナル ジオグラフィックは、もちろん日本に上陸する前から知っています。米国の友人もたくさん登場していましたしね。ネイチャー、アウトドア系ではトップ雑誌の認識です。定期購読で継続的にファンを掴まなくてはいけないから常に高いクオリティを担保する必要がある。その方針は、モンベルが発行している山岳雑誌『岳人』とも共通しています。
「僕の手の指は曲がったままなんですよ」と、
見せてくれた手は人生の軌跡そのものだ
おかげさまで、モンベルは今年で50周年を迎えました。我々の歴史は、登山愛好者の自分たちがほしいアイテムを作るところからスタートしています。私自身、アイガー北壁をはじめ、たくさんの厳しい登山を経験してきました。あの頃の登山用具は本当に粗末なものしかなかった。19歳のとき、穂高岳の冬山登山で質の良くないアクリル手袋をしていたせいで指が凍傷になったんです。登山用具にとって素材がいかに大事なのかを身を以て知ることができました。
「僕の手の指は曲がったままなんですよ」と、
見せてくれた手は人生の軌跡そのものだ
起業前、私は総合商社の繊維部に所属していて、そこで新しい繊維に出合った。その素材を使えば、理想とする登山用具ができるとひらめきました。登山用具は衣料というよりも、道具に近い。防寒性や防水性が大事なので、ファッションではありません。
一方、ファッションでないからといって見た目を捨てていいわけではない。実際は機能を追求した先に美しさがある。京都の桂離宮のように、梁一つ、柱一つ取ってもそれぞれに意味がある。そして山では1グラムでも装備を軽くしたい。だからモンベルの商品開発では「Function is beauty(機能美)」「Light&Fast(軽量と迅速)」をコンセプトに掲げています。機能を追求した先に自ずと美しさがあるのです。
例えばアップルのスティーブ・ジョブズさんも禅に惹かれてシンプルを追求しましたよね。とくに初期のアップル製品を見ると、とても親和性を感じます。ソニーの「ウォークマン」もそう。1つの機能に特化して追求した結果、あれだけ爆発的なヒットになった。多分、売れるために作ったのではなく、自分の裡(うち)からニーズを感じたからこそ、そこに行き着いたのではないでしょうか。緻密なマーケティングやリサーチだけでは出てこない発想です。
この考え方は、「なぜモンベルがここまで来れたのか」にもつながっています。誰かの真似をしたり、売れている商品を追いかけたりすることは一切なかった。ジョブズさんもそうですけど、ビジネスで一定の成功を収めている人は独自の視点で商品を開発しているんです。独自だから競争に巻き込まれることがなく、勝ち負けがない。それが長く続けられる秘訣だと思います。
今期のグループ売上は1620億円まで到達し、大手スポーツ用品メーカーと肩を並べるほどの規模になりました。しかし、売上だけを目標にやってきたのではなくて、自分たちが求めるものを追い続けてきたら、共感してくれるユーザーの輪がどんどん広がってきた。そんな感覚です。
とはいえ、これだけ企業規模が大きくなり、ユーザー層も広がってきているので時代に合わせてアップデートはしています。たとえば1980年代には子ども向けの登山用品を始めましたが、これも社員が子どもを登山に連れて行くときに適したギアがなかったことが発端です。鶏が先か卵が先かではないけれど、真剣にモノづくりに取り組んでいると徐々に「これいいね」と言ってくれるファンが増えてくる。ニーズが定着すれば、さらにモノづくりの輪が広がってきます。
最初のヒット商品は、1976年に米デュポン社の「ダクロン®ホロフィル®II」(以下ホロフィル)を採用した寝袋の「ダクロン・スリーピングバッグ」です。それまでの日本の寝袋は、とにかくかさばりました。ダウンを使っていれば多少は小さくなりましたが、ダウンは当時超高級品だし、化学繊維の中綿は重くてかさばるものだった。それに比べてホロフィルは非常に軽量かつ中空なのがポイント。繊維内部に空洞があるので保温性に優れ、なおかつ高い速乾性を備えていました。
モンベルでは米国から200キロものホロフィルの原綿を仕入れて、それを奈良県桜井市の布団工場に持ち込んで打綿してもらいました。我々も工場で一緒に作業しましたが、最初はシリコン加工した表面がツルツル滑るので苦労しました。
試作品は実際に登山してテストを繰り返しました。私が若い頃なんて、山で土砂降りになったらテント内に水が入ってきました。寝袋も防水性が低いので水に浮きながら寝ているようなものでしたが、ホロフィルを使ったことでそんな体験が一瞬にして変わった。予想通り、濡れても暖かい。今ではそういう先端素材を衣料にも拡大して、洗濯しても1時間ぐらいで乾くアンダーシャツ類に応用しています。
開発していて最も楽しかったのは、2001年に発売したアウトドアで茶の湯を楽しめる「野点(のだて)セット」。あれは本当に自分がほしいと思って作りました。正直、数量は出ていませんが、私にとっては愛着のある商品です。
野点など若い頃は想像もつきませんでした。でも私も喜寿ですからね。昔は「あそこの山に登るぞ」と山しか見ていませんでしたが、今はゆっくりと路傍の花を愛でながら登山できるようになった。私と同じ団塊世代の人口はこれから減る一方とはいえ、野点セットのようなアイテムはそうした人たちの共感を得ているに違いありません。
ずっと自分の好きなことをやっていますから、モンベルでやっていることは私が子どもの頃から一貫して変わっていません。モノづくりだけではなく、「SEA TO SUMMIT」(人力の移動手段による環境スポーツイベント)や「ジャパンエコトラック」(人力による移動手段で自然や文化を楽しむ新しい旅のスタイル)のような取り組みも同じです。
毎年開催されるSEA TO SUMMITには必ず参加しています。お客さんとの接点も大事ですが、自分がやりたいから参加している。何しろ、SEA TO SUMMITは私が言い出しっぺですからね。鳥取県の大山頂上に登り、頂上から海を見下ろしたときに「あそこから人力でここまで来たらどうかな」と思いついたのがきっかけでした。それで海をカヤック、里を自転車、そこから登山というルートでSEA TO SUMMITを開催することにしました。
2016年には「モンベル7つのミッション」を策定しました。自然環境保全、災害対応力、健康寿命増進、地域経済活性化、一次産業支援など、アウトドアを通じたモンベルの社会的使命を明文化したものです。ただし、わざわざお題目を掲げたわけではなく、モンベルを続ける中での気づきをまとめたものに過ぎません。
たとえば災害対応力では、「アウトドア義援隊」を組織しています。1995年の阪神・淡路大震災のとき、いても立ってもいられずに駆けつけたことが始まりです。これまでに新潟中越大地震、東日本大震災、熊本地震、能登半島地震などでアウトドア用品の提供や、支援活動を行ってきました。
7つのミッションに基づく包括連携協定も拡大しています(2025年現在で全国160カ所以上)。要望を受けて地方に出店することも増えてきました。2008年には大山の登山口にモンベルストアをオープンしましたが、毎日のように店に来ている近所のお年寄りが「辰野さん、まちの景色が変わりました」と話してくれました。シャッター通りで活気が失われていたのに、若い人たちも訪れるようになってがらりと変わったと。
北海道東川町の店舗も同様の効果がありました。オープンした2012年当時は人口が7800人でしたが、今では8600人に増えたそうです。前町長の松岡市郎さんは「アベノミクスならぬタツノミクスだ」とおっしゃっていました。2025年4月には、人口500人の奈良県黒滝村の道の駅にモンベルルームがオープンしたばかり。村からはかなり期待されているので、その期待に応えようと奮闘中です。いずれにせよ、こうした変化があちこちで起きています。
良い品質の商品はとにかく長持ちするものです。モノを大切にする姿勢はお客さんにも浸透していて、修理サービスも喜ばれています。先日の50周年イベントでは、40年前のモンベル製ジャケットを着ているお客さんに出会いました。何の不具合もないから捨てられないんだと。モンベルではテントのデザインも40年以上大きく変えていません。決して古く見えないからです。
だって、背広のデザインは150年近く一緒じゃないですか。変わったほうがいいモノと、変わる必要がないモノがあるとすれば、モンベルの商品は明らかに後者。30年前の寝袋を使っていても誰も文句を言わない。むしろ「30年も使ってるぞ」と誇りに感じてくれている人が多い。今の時代、こんな商品はほとんどないですよ。
モンベルが受け入れられているかどうかのバロメーターは「モンベルクラブ」の会員数です。現在も順調に伸びていて、すでに120万人を突破しました。会員数が伸び続けている限りは、社会がモンベルを必要としていると解釈しています。
今から20年前、創業30周年時は7万人でした。当時の社員会で、「30年後にモンベルクラブの会員数を100万人にしたい」と明言したんです。そこで社員のスイッチが入り、わずか16年後に100万人に到達。まさかそこまで早く達成できるとは思いませんでした。
50年後は500万人が目標です。でも、100万人を500万人にするのはそこまで大したことではない。まだ加入していない人はたくさんいるし、120万人の会員が3人連れてきたら480万人になるんですから。
過ぎてしまえばこの50年はあっという間でしたが、未だに無我夢中です。登山家は怖がりなんです。雨が降ったらどうしよう、風が吹いたらどうしようといつも考えている。なのでいつも「会社を潰すわけにはいかん」と思いながら経営してきました。
次の50年はどうなるかわかりません。やりたいことを続けつつ、転ばないように相談しながら山を登り続けていかねばならないでしょう。しかし、「ここまで登れば成功」と自分たちで可能性を狭めてほしくはない。
私の思考をあえて社員に教えることはしていませんが、実践の中ではたくさんダメ出しをしています。ほとんど褒めることはないかな。だけど決して理不尽なことは言っていないと思う。ただ、日経新聞の「私の履歴書」を執筆する機会に恵まれ、自分の考え方や会社の歴史を言葉で残すことができました。その言葉を読み解きながらいろいろと考えてほしいと思います。



登攀記「白い蜘蛛」に感銘を受け、以来山一筋の青春を過ごす。同時に将来登山に関連したビジネスを興す夢を抱く。1969年には、アイガー北壁日本人第二登を果たすなど、名実ともに日本のトップクライマーとなり、1970年には日本初のクライミングスクールを開校する。そして、1975年の28歳の誕生日の翌日に登山用品メーカー、株式会社モンベルを設立し、少年時代からの夢を実現する。またこの頃から、カヌーやカヤックにも熱中し、第3回関西ワイルドウォーター大会で優勝する。以降、黒部川源流部から河口までをカヤックで初下降、ネパール、北米グランドキャニオン、ユーコン、中米コスタリカなど世界中の川に足跡を残す。一方、1991年、日本で初めての身障者カヌー大会「パラマウント・チャレンジカヌー」をスタートさせるなど、社会活動にも力を注いできた。近年では、京都大学特任教授や天理大学客員教授など、野外教育の分野においても活動する。2011年に発生した東日本大震災では、阪神・淡路大震災以来の「アウトドア義援隊」を組織し、アウトドアでの経験をいかした災害支援活動を自ら被災地で陣頭指揮する。
趣味は、登山、クライミング、カヤック、テレマークスキー、横笛演奏、絵画、陶芸、茶道。
私の履歴書(日本経済新聞)





