APUがこれまでの到達点を確認し、次のステップに進むにあたって、絶対に忘れてはいけないことがあります。それは、世界中の優秀な留学生がやってくるこれまでのAPUのありかたを維持し、さらに発展させる、ということです。

ただし、実のところ、こればかりはAPU単体ではなし得ない部分があります。

というのも、海外からの留学生、とりわけ発展途上国からの留学生は、「どの大学」に留学するか、以上に「どの国」に留学するか、を非常に重要視しています。かつての日本からの留学においても、イギリスに行く、ドイツに行く、フランスに行く、アメリカに行くこと自体が大きな目的でした。

つまり、APUに優秀な留学生が集まるかどうかは、日本という国のブランド力にかかっている部分が大きいということです。

他国から見た国家のブランドは、その国の経済力、文化力、安全性などによって成り立っています。

経済の面で見ると、日本はピークの頃から低迷していると見られているかもしれません。けれども、文化の高さや治安の水準においては、今だにアジアではトップに位置しています。

日本は、文化力や治安の良さ、インフラのレベルの高さなど、まだまだ海外の人たちからすればブランド力のある国です。とりわけ、途上国の留学生は自国を代表する優秀な学生たちです。日本に追いつけ追い越せと真剣に考えています。だからこそ、世界中から優秀な学生が逆に新興大学であるAPUに集結してくれる。10年後には世界100ヵ国から留学生が集まる大学を目指します。

この流れを持続・発展させるのが、私たちAPUの大学人の使命です。

多様な留学生が集結しているAPUのキャンパスですが、課題はまだまだあります。

たくさんの国の留学生が集まったところで、それぞれの国の人たちがグループを作って固まってしまうと意味がありません。徹底的に異文化同士で混ざり合う必要があります。その意味で、学生同士の混ざり具合は、正直に言うとまだ充分ではないと思います。今や、APUには中国や韓国の学生たちはもちろん、ベトナム人だけで400人以上、ウズベキスタンからの学生が100人を超えています。そうなるとどうしても、出身国が同じ学生同士で固まってしまいがちなのです。それでは、創造性や人間の本質になるヒューマニティを追求する学びは生まれない。異質同士が混ざることで、価値観を相対化することが可能になり、そこから、新しい価値や考え方が生まれるのです。

授業では、グループディスカッションなどで、いろいろな国の学生が集まるようにグループをつくるなどの工夫もしていますが、やはりAPハウスでの異文化交流の中での共同生活は大きな意義がある。

特にシェアルームはいい環境です。部屋には、引戸を隔てたすぐとなりに、違う国から来た学生がいるんですから、どうしたって交流は深まりますよね。

では、どうやってさらに混ぜるのか。

1つは日本人の学生も、1回生は全員APハウスで一定期間は共同生活の経験ができるようにしたい。

現在は、留学生の1回生は全員、日本人学生は約半数という入寮率なのですが、日本人学生も100%寮生活ができると、「混ざり方が」が激しくなるはずです。

APUの価値の1つは、大分・別府という町にキャンパスがあることです。

よくAPUを評するときに「こんな田舎に国際大学が」と評されるのですが、それ、断じて間違っています。教育というのは、カリキュラムが充実していて、優秀な教員がそろっていれば、そこがベストなスポットなんです。

アメリカのカンファレンスなどでAPUを紹介するときに、私は「日本列島の南の、美しい島にあります」と説明します。それが一番分かりやすいからです。周囲の環境が、都会か地方かというのは、大学の内実と関係がないんです。

もともと大分という土地は16世紀頃、日本の中心地だったのです。当時の江戸は、旧利根川河口のアシ原です。西洋の地図でも、江戸が小さく書かれているのに対し、豊後は大きく書かれています。海路として考えると、瀬戸内とつながる開かれた国際港で、中国はもちろんポルトガルなどとも交易がありました。

近代以降の大分・別府は温泉地として有名になっていきました。

実は私、大分県が地元なんです。

子どもの頃、大分市に住んでいました。その頃の別府は、夜に子どもが近づいちゃいけない、大人の町でした。進駐軍がいて、軍用車がよく通っていたのを覚えています。

修学旅行生などの団体客が来る一大温泉地であった別府が、徐々にお客さんの高齢化に伴い、寂しくなっていきました。

そんな時に、APUができたんです。町が大きく変わり始めました。

別府は、先取の気質に富んだ「国際都市」に再生しようとしています。そう、中世の豊後のころのように。別府だけでなく、大分全体にAPUが核となってグローバル化の波が起きつつあります。

国際精神と自由精神を唱えて、立命館大学の祖となる私塾をつくったのは西園寺公望です。

そのひ孫にあたる方が、APUに来られたことがあるんです。

「140年たって、ひいおじいさんの夢がここで花開きました」と言ってもらいました。

私は、学長になったときの記者会見で、APUを国際的な咸宜園にしたい、と語りました。

咸宜園とは、江戸時代後期に生まれた儒学者・広瀬淡窓が、豊後・日田に開いた日本最大規模の私塾です。広瀬淡窓は、どんな出身の者でも受け入れるという広い心の持ち主で、生徒は何千人と集まっていたといいます。

カリキュラムも、すごく充実している。資料を見ると、四書五経だけでなく、墨子、詩経、荘子……もうすべてやっています。

それを見た時、APUのようだと思いました。これだけ国際的な学生を集め、そして教育の高品質化を進めていけば、APUは、アジアの咸宜園になり得る。そう信じています。

10年後には、社会科学系でアジアのトップ30に入る大学となり、アジア太平洋の各国の大学とカリキュラムを交換し、教員が、学生が自由に行き来できるような教育環境を創りたい。まさにアジア太平洋の大学となる。それがこれからの目標ですね。

APUのキャンパスに吹いている風、漂う光。これって、ほかの大学と全然違うんですよね。

なぜなんだろうと、初めて来て以来ずっと考えていました。

それは、立地的に高いところにあるからじゃなくて(笑)、学生から醸しだされる雰囲気なんじゃないかと思うようになりました。

APUの理念は、「自由、平和、ヒューマニティ」、「国際相互理解」、「アジア太平洋の未来創造」です。APUに来て、初めてこの理念を知ったとき、その神々しさに胸を打たれました。

こうしたミッションを持つ大学で、学び、鍛えられる学生が醸し出す風と光。それは、束縛から自由へと人間が動いていく過程で生まれる、想像力のようなものだと思います。

私は人生の意義を考えるときに、サマセット・モームの『人間の絆』を読み返すんです。足に障がいをかかえた主人公がさまざまな束縛から逃れて自由になっていく。これがまさに、人生の意義なのではないかと。

彼は医師免許を取ることで自立していきましたが、APUで得られるのは、学問的な知識と、異文化の中で育まれる実践的な知です。それを身に付けた卒業生は、自立した人生を送り、束縛を離れて自由になれると思います。その自由への風が吹いているのが、APUという場所なんです。